市指定文化財

更新日:2021年07月01日

有形文化財

建造物

菅生石部神社神門
(すごういそべじんじゃしんもん)

員数    1棟
所有者    菅生石部神社
所在地    大聖寺敷地
指定年月日    昭和51年7月19日


菅生石部神社の入口に建ち、総欅造りの銅葺き2層の楼門で、設計者は建仁寺流の名工山上善右衛門嘉広の子孫、7代目善右衛門吉順であり、現存する棟札や設計図から文政7年(1824)に起工し、翌年9月に完成したことがわかる。
建築にあたっては、藩主をはじめ有力町人らの寄進により、大聖寺・加賀両藩の大工棟梁を動員して造立され、各部分の様式や構造においても優れている。

菅生石部神社神門の写真
 
 

旧大聖寺関所門
(きゅうだいしょうじせきしょもん)

員数    1棟
所有者    宗寿寺
所在地    大聖寺神明町
指定年月日    平成9年10月28日


宗寿寺の山門は旧大聖寺藩の関所門で、明治初年(1868)に関所が廃止された際に移築されたという。構造及び様式は切妻木造瓦葺き、高さ3メートル、幅3.15メートルである。屋根は移築後に付け加えられたもので、当初は門柱と扉のみであったと推定される。
保存状態は良好で、関所門の面影を良く残しており、こうした関所の柵門は全国的にも他には現存していないことから、歴史上及び学術上価値が高い。

旧大聖寺関所門の写真

 

 

旧九谷寿楽窯母屋兼工房
(きゅうくたにじゅらくかまおもやけんこうぼう)

員数    1棟
所有者    加賀市
所在地    山代温泉(九谷焼窯跡展示館)
指定年月日    平成11年8月24日


九谷寿楽窯の中核施設として使用された建物で、江戸中期に建てられたものを明治中頃に移築したと伝えられる。
工房では九谷焼の一貫した作業工程を知ることができる。近代の九谷焼製造工程を知るうえで貴重な建造物であり、市内最古の民家としても歴史上及び学術上価値が高い。
現在、九谷焼窯跡展示館の展示棟として公開している。

旧九谷寿楽窯母屋兼工房の写真

 

 

旧酒谷長兵衛家住宅
(きゅうさかやちょうべいけじゅうたく)

員数    1件
所有者    加賀市
所在地    橋立町
指定年月日    平成18年2月5日


現在北前船の里資料館となっているこの屋敷は、明治9年(1876)に建てられたもので、橋立に残る北前船主屋敷の中では最大の規模であり、北前船で巨万の富を得た船主の暮らしぶりをうかがい知ることができる。また、橋立北前船主型屋敷の発展過程のなかで、その完成形とも言うべき貴重な建造物であり、建築史上も価値が高い。

旧酒谷長兵衛家のオエの写真

 

 

大堰神社拝殿    附文政9年棟札
(おおひじんじゃはいでん    つけたりぶんせいくねんむねふだ)

員数    1棟    附1点
所有者    大堰神社
所在地    山代温泉
指定年月日    平成20年5月20日


棟札及び写真から文政9年(1826)に服部神社の神楽殿として造営され、昭和15年(1940)に大堰神社の拝殿として移築されたものと判明している。当時の宮大工の技が随所に見受けられ、県内でも数少ない神楽殿の遺構としても貴重である。

大堰神社拝殿の写真

 

 

実性院本堂
(じっしょういんほんどう)

所有者    実性院
所在地    大聖寺下屋敷町
指定年月日    平成23年7月22日


寛文5年(1665)創建時の建物で、正面に土間を有し、大間と脇間境には一間毎に柱を入れるなど、江戸前期から中期頃の曹洞宗寺院本堂の特徴をよく伝える遺構である。県内に残る大名家菩提寺本堂としては、唯一の創建時本堂であり建築学上も貴重な建物である。

実性院本堂の写真

 

 

実性院御霊屋
(じっしょういんみたまや)

所有者    実性院
所在地    大聖寺下屋敷町
指定年月日    平成23年7月22日


石川県内で平面が京間寸法で設計されるのは、江戸時代初期に限定されるが、当該建物も京間寸法で設計されていることや細部の意匠などから、建設年代が江戸前期に遡ると判断される。実性院の前身であった宗英寺の仏堂を転用した可能性が高く、県内では江戸時代の大名家御霊屋としては唯一の遺構であり、市内最古の仏堂建築としても貴重である。

実性院御霊屋の写真

 

 

旧新家家住宅
(きゅうあらやけじゅうたく)

所有者    加賀市
所在地    大聖寺関町
指定年月日    平成25年7月23日


北国街道に面して表門を設け、主屋と離れ座敷の鴻玉荘(こうぎょくそう)を中心に、茶室、土蔵、小屋、東塀及び裏門で構成される近代和風住宅である。主屋は大正14年(1925)築の料亭建築で、繊維産業全盛期の大聖寺料亭文化と、江戸時代の茶屋文化を結びつける貴重な遺構である。
離れ座敷は昭和20年(1945)8月着工、同22年(1947)の竣工で、物資が少ない中でも良質な材料を揃えた数寄屋建築として高く評価される。

旧新家家住宅主屋の写真

旧新家家住宅主屋

 

 

旧新家家住宅鴻玉荘の写真

旧新家家住宅鴻玉荘

 

 

絵画

山中温泉縁起絵巻
(やまなかおんせんえんぎえまき)

員数    2巻
所有者    医王寺
指定年月日    昭和34年6月26日


山中温泉の成り立ちに関する伝承をまとめた絵巻物で、鎌倉時代に製作された旧図が寛政10年(1798)に焼失したため、文政9年(1812)に改めて作成されたものである。僧正行基の温泉発見から荒廃、長谷部信連による再興までが描かれており、山中温泉の開湯伝説を伝える貴重な絵画資料である。

山中温泉縁起絵巻の写真

 

 

絹本著色天神画像    伝土佐光信筆
(けんぽんちゃくしょくてんじんがぞう    でんとさみつのぶひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


大聖寺藩3代藩主前田利直より寄進された天神画像である。天神とは菅原道真のことであり、当該資料には畳の上に黒い束帯姿で右に向いて座る天神が描かれ、上部左右には梅と松が配されており、火雷天神としての迫力や畏敬の念が描き出されている。
当該資料は室町時代中期から戦国時代にかけて活躍した土佐派中興の祖、土佐光信の作と伝えられる。

絹本著色天神画像  伝土佐光信筆の写真

 

 

紙本著色天神画像    伝狩野元信筆
(けんぽんちゃくしょくてんじんがぞう    でんかのうもとのぶひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


作者は室町時代の絵師で、狩野派の基礎を築いた狩野元信と伝わり、歴史的にも美術的にも価値が高い。
天神像は、黒い束帯姿で綱でできた敷物の上に座っており、こうした天神画像を綱敷天神と呼び、比較的作例が少ない。
この天神は大きく目を見開き怒りを表現しており、力強い筆致で描かれている。美術的にみても当市にとって貴重な絵画である。

紙本著色天神画像  伝狩野元信筆の写真

 

 

絹本著色寿老人図    伝周文筆
(けんぽんちゃくしょくじゅろうじんず    でんしゅうぶんひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


大聖寺藩4代藩主前田利章が、同じく市指定文化財となっている上指矢2本とともに寄進したものである。絹本軸装で彩色が施されている。作者は室町時代中期の禅僧であり画家であった周文と伝えられる。中央に白髭を携えた七福神の一人で長寿の仙人である寿老人が描かれている。右には長寿と自然との調和のシンボルである鹿、また左手には鶴、画面右下には亀など長寿を象徴する生き物が生き生きと描かれており、美術史上貴重な資料である。

絹本著色寿老人図 伝周文筆の写真

 

 

紙本墨画野馬図    伝雪舟筆
(しほんぼくがやばず    でんせっしゅうひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


大聖寺藩5代藩主前田利道が、同じく市指定文化財となっている上指矢2本とともに寄進したものである。紙本軸装で、2匹の野馬を強いタッチと、墨の濃淡やぼかし技法で描いている。作者と伝えられる雪舟等楊は、室町時代に活躍した水墨画家で「画聖」と称えられる我が国を代表する画僧である。

紙本墨画野馬図 伝雪舟筆の写真

 

 

紙本著色源氏絵    伝土佐光信筆
(しほんちゃくしょくげんじえ    でんとさみつのぶひつ)

員数    一括
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


当該資料は室町時代中期から戦国時代にかけ活躍した、土佐派中興の祖土佐光信の作と伝わる源氏絵12枚である。
宮中の華やかな様子が、鮮やかな色彩で描かれている。当該資料の来歴は不明であるが、当市美術史において重要な資料である。

紙本著色源氏絵  伝土佐光信筆の写真

 

 

絹本著色黄初平図    伝趙子昂筆
(けんぽんちゃくしょくこうしょへいず    でんちょうすごうひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


黄初平は、中国晋の葛洪(かつこう)著『神仙伝』に記されている仙人の一人で、15歳の折、羊を放牧していて一道士に遭い、金華山の石室中に誘われて40余年家に帰らなかったという伝説上の人物である。
作者は中国の南宋から元にかけて活躍した画家の趙子昂と伝えている。

絹本著色黄初平図    伝趙子昂筆の写真

 

 

紙本著色三十六歌仙図    伝土佐光信画    近衛殿筆
(しほんちゃくしょくさんじゅうろくかせんず    でんとさみつのぶが    このえどのひつ)

員数    一括
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


絵は土佐派の巨匠光信、書は近衛殿とされている。近衛殿は寛永の三筆の一人近衛信尹を指していると考えられる。36枚のうち33枚に歌書があり、歌仙絵もおおらかに描かれているが、3枚のみ歌書がなく歌仙絵も細密に描かれている。土佐派の絵としては歌書のない3枚のほうが該当することから、土佐光信画と伝えるのはこの3枚のみであった可能性が高い。この資料は前田利常自ら菅生石部神社に寄進したものであり、菅生石部神社と前田家との関係を知る上で貴重な資料である。

三十六歌仙(伊勢)伝土佐光信筆の写真          三十六歌仙(柿本人麻呂)伝土佐光信筆の写真

 

 

紙本著色三十六歌仙図    作者不詳    上倉左衛門奉納
(しほんちゃくしょくさんじゅうろくかせんず    さくしゃふしょう    かみくらさえもんほうのう)

員数    一括
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


作者は不詳であるが、上方に色紙枠を描き、その中に歌書を記す。歌仙は人物を大きく描いている。寄進者は越前国住人上倉左エ門伍長となっているが、その来歴は不明である。古様を示す歌仙図であり、筆者は岩佐又兵衛かそれに近い工房で制作された可能性も指摘できることから貴重な作品である。

紙本著色三十六歌仙図    作者不詳    上倉左衛門奉納の写真

 

 

紙本著色三十六歌仙図    作者不詳
(しほんちゃくしょくさんじゅうろくかせんず    さくしゃふしょう)

員数    一括
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


作者及び来歴とも不詳であるが、江戸前期の奈良絵に近いと考えられる作品である。鉛箔を貼った色紙に歌仙絵のみ描かれた作品である。
当該資料を含めて菅生石部神社には4種類以上の歌仙絵が確認されており、菅生石部神社における文芸活動の一端を示す資料として貴重である。

紙本著色三十六歌仙図(作者不詳)の写真

 

 

紙本和歌三神図
(しほんわかさんしんず)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


紙本軸装で、画面下部中央に十二単衣の女性、左に烏帽子を被った老人、右に衣冠束帯の男性を描く。それぞれ玉津島神・柿本人麻呂・住吉明神を表わしているようである。
歌会の場に掛けるために描かれたと考えられ、菅生石部神社では歌会が盛んに催されていたことがわかる。当地の文化を知る上で貴重な資料である。

紙本和歌三神図の写真

 

 

紙本著色温泉寺縁起図
(しほんちゃくしょくおんせんじえんぎず)

員数    1点
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


当該資料は、嘉永5年(1852)に小嶋春晁によって描かれた温泉寺の由来絵図である。
この縁起は山代温泉の発見から始まり、行基によるお堂の建立、明覚上人による七堂伽藍の建立など、温泉寺の由来とともに、山代温泉の変遷も見ることができる。画面左下には江戸時代後期の山代湯の曲輪(ゆのがわ)の繁栄がうかがえる貴重な資料である。

紙本著色温泉寺縁起図の写真

 

 

絹本著色十一面観音図
(けんぽんちゃくしょくじゅういちめんかんのんず)

員数    1幅
所有者    畑町区長
指定年月日    昭和57年12月22日


当地方における白山信仰の中心、白山五院のひとつである極楽寺に旧蔵されていたものである。
当該資料は正面位の尊容を描き、動きがなく天衣も静止し、表情も硬いことから室町時代の制作と考えられる。
十一面観音は、白山大御前の本地仏とされており、当該資料は中世まで遡る仏画であり、当市における白山信仰の状況を具体的に知り得る貴重な資料である。

絹本著色十一面観音図の写真

 

 

絹本著色阿弥陀如来来迎図
(けんぽんちゃくしょくあみだにょらいらいごうず)

員数    1幅
所有者    畑町区長
指定年月日    昭和57年12月22日


白山五院のひとつである極楽寺に旧蔵されていたものである。雲上に一尊のみ描き、雲尻も穏やかにたなびいている。全体的に動きが少なく、衣紋にも躍動感が殆ど見られないことから、制作年代は南北朝時代を遡ることはないと考えられる。
阿弥陀如来は、白山大汝峰の本地仏とされ、当市における白山信仰の流れを具体的に知り得る貴重な資料である。

絹本著色阿弥陀如来来迎図の写真

 

 

絹本著色釈迦三尊十羅刹女図
(けんぽんちゃくしょくしゃかさんぞんじゅうらせつにょず)

員数    1幅
所有者    全昌寺
指定年月日    昭和62年10月8日


中央に霊鷲山を背にして法華経を説く釈迦如来を配し、左右下に普賢菩薩、文殊菩薩を配し、下部に法華経信仰者を守護する十羅刹女を描く。
描写は丁寧な線で朱や緑青、白色顔料、金泥などで明快に彩色され、こうした手法から見て、制作時期は室町時代と考えられる。こうした図像は、県内でも年代的にきわめて類例が少なく貴重である。

絹本著色釈迦三尊十羅刹女図の写真

 

 

紙本淡彩出山釈迦図    狩野友益筆
(しほんたんさいしゅつざんしゃかず    かのうゆうえきひつ)

員数    1幅
所有者    全昌寺
指定年月日    昭和62年10月8日


苦行の後、独自の道を求めて山を出る釈迦の姿を描いたものである。眉毛や髪などは細かい墨線で緻密に描かれ、面貌や衣から出た身体は薄茶色にぼかしている。それとは対照的に衣の筆致は力強く描かれている。
加賀藩御用絵師であった狩野友益の筆である。友益の作品は現存しているものが少なく、美術史的に貴重な資料である。

紙本淡彩出山釈迦図    狩野友益筆の写真

 

 

紙本墨画出山釈迦図    小原文英筆
(しほんぼくがしゅつざんしゃかず    おはらぶんえいひつ)

員数    1幅
所有者    全昌寺
指定年月日    昭和62年10月8日


小原文英筆の出山釈迦図で、髪や面貌、肉身部は渇筆、衣文部は略筆の滅筆体でゆったりとした肥痩線に現している。
作者は江戸時代後期の大聖寺藩士である。多くの絵画を残しているが、仏画の作品数は少ない。当市にとって芸術上価値の高いものである。

紙本墨画出山釈迦図    小原文英筆の写真

 

 

紙本著色釈迦涅槃図    狩野俊信筆
(しほんちゃくしょくしゃかねはんず    かのうとしのぶひつ)

員数    1幅
所有者    宗寿寺
指定年月日    平成元年3月23日


江戸前期から中期に活躍した絵師狩野俊信筆の縦3.14メートル、横2.58メートルの大涅槃図である。釈迦の臨終の場面を描き、釈迦を金泥、諸尊や人物を白泥、着衣は多色による彩色を施す。しなやかな描線と華やかな彩色は、荘厳な場面を美しく再現し、画面上に静と動を見事に調和させている。
涅槃図としては大型であり、周囲の表具部分まで描画されている。保存状態が良好なため、制作当時を思わせる鮮やかな彩色が残る。

紙本著色釈迦涅槃図    狩野俊信筆の写真

 

 

紙本金地著色群鹿図屏風    佐々木泉景筆
(しほんきんじちゃくしょくぐんろくずびょうぶ    ささきせんけいひつ)

員数    六曲一双
所有者    実性院
指定年月日    平成25年2月19日


大聖寺藩主の菩提寺である実性院に伝来していたもの。檜樹の合間に鹿の群を配し、色彩を抑えながらも金箔地に映えて豪華な雰囲気を作っている。佐々木泉景は大聖寺生まれの狩野派絵師。
加賀藩御抱絵師として佐々木一門を率い、加賀百万石の絵師の頂点に登りつめた人である。画面両端の「法橋泉景筆」の落款から、享和2年(1802)法橋位を得てから文政4年(1821)法眼位となるまでの作品であることがわかる。本屏風は名作の多い泉景作品のなかでも、最高峰の名作と評価されている。

紙本金地著色群鹿図屛風(右隻)の写真
右隻

 

紙本金地著色群鹿図屏風(左隻)の写真
左隻

 

 

彫刻

木造五百羅漢像
(もくぞうごひゃくらかんぞう)

員数    517躯
所有者    全昌寺
指定年月日    昭和48年8月20日


釈迦三尊像3体、十大弟子尊像10体、四天王尊像4体、五百羅漢尊像500体の計517体から成り、石川県下では唯一完存した五百羅漢像である。記録によると、加賀藩および大聖寺藩の御広敷・武士・町人等の寄進により慶応3年(1867)から明治初期にかけて制作されたものである。
彩色も鮮明で、保存状態も極めて良好である。制作記録「御用向仕様書」と、寄進者を記録した台帳も現存しており、造立年代、寄進者名、住所などを明確に知ることができる貴重な資料である。

木造五百羅漢像の写真

 

 

木造薬師三尊像(附十二神将像・厨子)
(もくぞうやくしさんぞんぞう(つけたりじゅうにしんしょうぞう・ずし))

員数    3躯    附12躯、1点
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


中尊は薬師如来、左に月光菩薩、右に日光菩薩を配し、厨子入りで十二神将を付属する。薬師如来は鎌倉時代の作と伝えられる。
大聖寺藩3代藩主利直の弟利昌(采女)の念持仏であったといわれている。采女は、大聖寺新田藩を分与されていたが、宝永6年(1709)勅使接待に関し、大和柳本藩織田秀親と争ってこれを刺殺し、自身は切腹となった。この念持仏は采女の遺言により薬王院におくことになったと伝えられている。厨子と十二神将像を附指定としている。

木造薬師三尊像(附十二神将像・厨子)の写真

 

 

木造僧形八幡神像
(もくぞうそうぎょうはちまんしんぞう)

員数    1躯
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請されたが、寺院の守護神としても広く勧請された。本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が広まると、僧形で表されるようになり、これを僧形八幡神という。
本像は鎌倉時代の作と推定され、寺院の守護神として祀られた好例である。

木造僧形八幡神像の写真

 

 

木造十一面観音立像(白山妙理大権現像)
(もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう(はくさんみょうりだいごんげんぞう))

員数    1躯
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


頭上に十一面をいただく観世音菩薩像。後世の修復が大きいため制作年代は断定できないが、体部は中世まで遡るものと思われる。
頭部は近世に修復されているようである。白山信仰を物語る木地仏であることから、白山五院のひとつであった当寺に祀られていることに意義がある。

木造十一面観音立像(白山妙理大権現像)の写真

 

 

木造地蔵菩薩立像
(もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう)

員数    1躯
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


釈迦の入滅後、弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となるため、その間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。
市内に残る木造地蔵菩薩像としては古作であり、貴重な作例である。

木造地蔵菩薩立像の写真

 

 

木造大黒天立像
(もくぞうだいこくてんりゅうぞう)

員数    1躯
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


大黒天は仏教守護の神で、もとは自在天の化身で戦闘神、のちに飲食の神として祀られた。8世紀に日本に伝わり、大国主命の信仰と合し、江戸時代には農耕の神として信仰されている。
当該資料は江戸時代の作と考えられ、ふくよかな面相や全体のプロポーションは、農耕神としての性格をよく表現している。

木造大黒天立像の写真

 

 

木造不動明王座像    附矜羯羅・制吁迦童子像
(もくぞうふどうみょうおうざぞう    つけたりこんがら・せいたかどうじぞう)

員数    1躯    附2躯
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


不動明王は衆生救済のため大日如来が化身した姿とされ、密教における五大明王の主尊として信仰されている。
当該資料の玉眼は平常眼で、不動明王としては極めて少ない。両童子も完備しており、躍動感ある姿態から鎌倉時代の作と考えられる貴重な作品である。

木造不動明王座像 附矜羯羅・制吁迦童子像の写真

 

 

木造日蓮上人坐像
(もくぞうにちれんしょうにんざぞう)

員数    1躯
所有者    宗寿寺
指定年月日    平成元年3月23日


日蓮宗の開祖日蓮の座像で、寄木造で玉眼嵌入(かんにゅう)、彩色が施されている。ふっくらした輪郭、直線的な眉、正面を見据えるまなざしなど、強い信念を持った青年期の日蓮像を表している。
像底面に記された墨書の銘から、天正16年(1588)に開眼したことがわかる。県下では唯一の近世初期年号が入った日蓮座像であり、当市にとって歴史上ならびに芸術上価値が高い。

木造日蓮上人坐像の写真

 

 

木造大日如来座像
(もくぞうだいにちにょらいざぞう)

員数    1躯
所有者    医王寺
指定年月日    平成21年6月30日


撫で肩で細身のプロポーション、肉薄な側面観、衣文表現なども全体に省略傾向が強いが、えらの張った輪郭、表情などは11世紀以前の古い木彫像の系譜に連なる表現である。
特に、面貌(めんぼう)表現において、眉がこめかみに向かってつりあがりながら弧を描く様子や、天冠台(てんかんだい)の幅広の列弁帯は11世紀の作例に多い形式である。
当市においては、10世紀後半~11世紀頃の作である山代温泉の薬王院温泉寺所蔵の十一面観音立像に次ぐ古さであり、小像ではあるが県内でも平安期に遡る数少ない貴重な仏像である。

木造大日如来座像の写真

 

 

工芸品

明青花唐人物図燭台
(みんせいかとうじんぶつずしょくだい)

員数    2点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


慶安3年(1650)大聖寺初代藩主前田利治から寄進されたもので、中国明時代後期の景徳鎮窯製と推定される。一対であるが、胴の張り具合の違いで大小の違いがあり、胴部に流麗なタッチで唐人物を描き、受皿部に唐草紋、支柱部には当時ヨーロッパから伝来したチューリップ紋様が描かれている。素地及び染付の発色が大変美しい資料である。

明青花唐人物図燭台の写真

 

 

明交趾孔雀牡丹紋花瓶
(みんこうちくじゃくぼたんもんかびん)

員数    1点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


法花といわれる中国華南三彩陶器の壷である。景徳鎮窯の製品と思われ、作製年代は嘉靖時代(1521~1567)以前頃と考えられる。紫釉を中心に紺・緑などの色釉で塗り埋めており、この技法は九谷焼の青手に影響を与えたとされている。
孔雀に牡丹の花を配し、繊細巧緻複雑なる透かし彫りが施された優品である。

明交趾孔雀牡丹紋花瓶の写真

 

 

色絵鶏形香炉
(いろえにわとりがたこうろ)

員数    1点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


平戸焼とされる香炉である。平戸焼は平戸藩松浦家の御用窯で、白磁、青磁を生産した磁器窯で、繊細巧緻な作りが特徴である。ここで生産された焼物は純白や淡緑色の白磁が名高く、特に香炉置物の精巧な細工物に優れている。本資料の素地は淡緑色で、鶏冠(とさか)と嘴(くちばし)に赤と黄の上絵が施された江戸前期の優品である。尾羽部分が破損していたが近年修復された。

色絵鶏形香炉の写真

 

 

三葉葵紋入白銅鏡
(みつばあおいもんいりはくどうきょう)

員数    1点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


天徳院所用の化粧道具で、徳川家から前田家に輿入れした際に持参した婚礼調度品の一つである。鏡背に徳川家の三葉葵紋が配されている。女人にとって鏡は特に大切な調度品であった。これを菅生石部神社に奉納しているということは、いかに天徳院が菅生石部神社を尊崇していたかを知ることができる貴重な資料である。

三葉葵紋入白銅鏡の写真     

 

 

黒地葵紋散蒔絵雛道具
(くろじあおいもんちらしまきえひなどうぐ)

員数    18点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


2代将軍徳川秀忠の二女珠姫が加賀藩3代藩主前田利常に輿入れした際に持参した婚礼調度品の一つとして調えられたもので、元和5年(1619)に菅生石部神社に寄進したものである。
当該資料は精巧な作りで、黒漆塗りに金蒔絵で徳川家の三葉葵紋を数多く散らした将軍家の格式の高さを誇り、江戸時代前期における工芸技術の高さを今に伝えるとともに、現在は大半が失われた輿入道具の内容をうかがうことのできる貴重な資料である。

黒地葵紋散蒔絵雛道具の写真

 

 

能面(橋姫、浅井増女、翁)
(のうめん(はしひめ、あさいぞうおんな、おきな))

員数    3面
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


「橋姫」は鬼女の面(おもて)で、嫉妬に満ちた表情を表現している。
「増女」の面は、若い女性を表現しており、特に清澄な神女として能で使われることが多い。これらの面は精巧に作られ、「増女」の面には能面師「井セキ」の銘が入った名面として知られている。当地は江戸時代より能が盛んであり、これらの面が菅生石部神社に寄進されているという点からも、当地における能楽の流行をうかがい知ることができる。

能面 橋姫の写真    能面 浅井増女の写真    能面 翁の写真
 橋姫                                       浅井増女                                         翁    

 

 

白綸子地水仙唐花丸形模様縫小袖及び白絹
(しろりんずじすいせんからはなまるがたもようぬいこそでおよびしろきぬ)

員数    各1点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


雷雲と蘭の白紋繻子地に紫・萌黄の色糸と金糸を用いた刺繍と、疋田絞りを用いて水仙と唐花丸紋を衣装全体に散らす。水仙の花束は22束数え、すべて絵変わりで色数を抑えていながらも繊細かつ優美に仕上げられ、気品の高さを感じさせる。
天徳院所用とされた時期もあったが、技法の年代から法梁院(大聖寺5代藩主前田利道の娘、加賀藩11代藩主前田治修正室)所用と推定される。

白綸子地水仙唐花丸形模様縫小袖及び白絹の写真

 

 

矢及び上指矢
(やおよびうわざしや)

員数    11本
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


大聖寺藩4代藩主前田利章、5代利道により野馬図、寿老人図とともに寄進された上指矢4本と、大聖寺藩9代藩主前田利之、加賀藩主より寄進された矢7本である。大聖寺藩主より寄進された矢は鏑矢(かぶらや)ともいい、武術の向上を願い寄進したものである。武具ではあるが工芸品としても当時の技術の高さを示す資料として貴重である。

矢及び上指矢の写真

 

 

能面(猩々、孫次郎、翁)
(のうめん(しょうじょう、まごじろう、おきな))

員数    3面
所有者    江沼神社
指定年月日    昭和34年7月13日


猩々は旧大聖寺藩士野尻自然から、孫次郎は同安井雅紀から、翁は旧大聖寺藩主前田利鬯から、それぞれ明治6年(1873)に寄進されたものである。猩々には室町時代の応永年間に面(おもて)を作ったと伝えられる福来(福来石王兵衛、越前一条の人)作の銘があり、孫次郎には猫金の銘を持つ。これらは明治以降も大聖寺で続けられた演能の際に使用したもので、大聖寺における能楽の継承を知る上で貴重な資料である。

能面 猩々の写真    能面 孫次郎の写真    能面 翁の写真
 猩々                                     孫次郎                                       翁  

 

能衣装(松竹模様長絹、鷺模様唐織、扇面模様唐織)
(のういしょう(しょうちくもようちょうけん、さぎもようからおり、せんめんもようからおり))

員数    3領
所有者    江沼神社
指定年月日    昭和34年7月13日


長絹は、雲形の中に松と小松を描いた文様を背と両袖の中央におき、裾に竹を配した典型的な構図をしている。扇面模様唐織は扇面流しの遊びを思わせるように配置された扇面と秋草の文様が織り出されている。また、鷺模様唐織は水辺に遊ぶ白い鷺を描いた意匠で背を中心に左右対称の構図であることが珍しい。これらは加賀藩3代藩主前田利常が大聖寺分藩の際、利治に与えたものと伝えられ、大聖寺藩14代前田利鬯公により明治6年(1873)に江沼神社に奉納された能装束である。

能衣装 鷺模様唐織の写真    能衣装 扇面模様唐織の写真
鷺模様唐織                                                 扇面模様唐織

能衣装 松竹模様長絹の写真
松竹模様長絹

 

世阿弥風小丸椀
(ぜあみふうこまるわん)

員数    1組
所有者    個人
指定年月日    昭和34年10月5日


黒漆の優美な姿をした小丸椀で、漆塗りの名工初代呉藤友乗の作である。当該作品は、初めから透けたように工夫する時代塗の最高技術を生かした作品で、山中漆器の技術の高さがうかがえる。

世阿弥風小丸椀の写真

 

 

洗朱刷毛目塗細中次茶入
(あらいしゅはけめぬりほそなかつぎちゃいれ)

員数    1合
所有者    個人
指定年月日    昭和34年10月5日


初代呉藤友乗の大正期の作品で、その最高傑作である。和紙を使い乾漆風につくる張抜き技法を用い、内側は黒漆、上塗りは洗朱塗を施し、刷毛目塗の技法を用いた優雅な作品である。

洗朱刷毛目塗細中次茶入の写真

 

 

朱溜塗棗形糸目食籠
(しゅだめぬりなつめがたいとめじきろう)

員数    1合
所有者    個人
指定年月日    昭和34年10月5日


筋物挽きの創始者といわれる蓑屋平兵衛の作といわれ、原始的な手綱引きロクロを使い、棗型に精巧に挽かれた千筋が特徴的な作品である。

朱溜塗棗形糸目食籠の写真

 

 

朱溜塗糸目大平
(しゅだめぬりいとめおおひら)

員数    1合
所有者    加賀市
指定年月日    昭和34年10月5日


筋物挽きの創始者である蓑屋平兵衛作の大平椀である。外側は原始的な手綱引きロクロを用いて糸目がつけられた、きわめて精巧な作品であり、ロクロ挽きの技術の高さがうかがえる作品である。
挽物、塗物のどちらも山中漆器の高い技術を示す資料である。

朱溜塗糸目大平の写真

 

 

毛毬形五つ組挽物細工
(けまりがたいつつくみひきものさいく)

員数    1組
所有者    個人
指定年月日    昭和35年10月5日


千筋の名工三桝屋清蔵の作と伝わる。原始的なロクロを使い、大きいもので約4ミリメートル、小さいもので約1ミリメートルの五つ組挽物細工である。木地も一つ一つ材質が異なり、カンナ筋も大変美しく、小品ながらロクロの最高技術を生かした作品である。

毛毬形五つ組挽物細工の写真

 

 

枯木寒鴉蒔絵丸硯筥
(かれきかんからすまきえまるすずりばこ)

員数    1合
所有者    個人
指定年月日    昭和35年10月26日


当該資料は、山中蒔絵の名工大下雪香の作である。内側は金梨子地がされ、外側は山中漆器の特徴的な技法である木地錆上蒔絵を用いて、枯木にとまる鴉を描いている。また表面は木目を生かした拭漆が施されている。
大下雪香は山中漆器に加賀蒔絵の手法を取り入れた技術の向上に努めた人物である。当該品は、山中漆器の蒔絵作品としては、高い技術を誇る作品である。

枯木寒鴉蒔絵丸硯筥の写真

 

 

洗朱塗高坏形菓子器
(あらいしゅぬりたかつきがたかしき)

員数    1合
所有者    個人
指定年月日    昭和35年12月8日


筋物挽の創始者蓑屋平兵衛の作と伝わる高杯型の菓子器である。内部は銀箔が施され、外側はゆがみのない精巧な千筋挽きが特徴である。外側全体には洗朱が塗られ、筋挽が見えるように仕上げられている。
蓑屋平兵衛の代表作のひとつであると同時に、山中木地挽物技術の高さがうかがえる優品である。

洗朱塗高坏形菓子器の写真

 

 

冨貴漆毛筋宝珠形香合
(ふきうるしけすじほうじゅがたこうごう)

員数    1合
所有者    個人
指定年月日    昭和35年12月8日


千筋挽の名工筑城良太郎の作である。小品でありながらも極めて細い感覚で毛筋が挽かれ、そこには全くゆがみがない。また自身が発案した拭漆を丹念に施し、優美に仕上げている。当該品は千筋挽技術を追求した作品で、木地挽物技術の最高傑作と言える作品である。

冨貴漆毛筋宝珠形香合の写真

 

 

太助盆(我谷盆)社号額
(たすけぼん(わがたぼん)しゃごうがく)

員数    1枚
所有者    我谷町八幡神社
指定年月日    昭和40年3月5日


栗材を用いたもので、丸のみで刻まれた素朴なのみ跡が美しい我谷盆を転用した額である。慶応2年(1866)3月に我谷村の八幡神社に奉納されており、それ以前に制作されたことが解る。年代の特定できる我谷盆としては最古の例であり、貴重な作品である。

太助盆(我谷盆)社号額の写真

 

 

乾漆八角形瓔珞紋吸物椀
(かんしつはっかくけいようらくもんすいものわん)

員数    5合
所有者    個人
指定年月日    昭和40年3月5日


田中二三郎作の五つ組の吸い物椀である。布や紙を張り重ね、漆で塗り固めた乾漆の吸物椀である。挽物が特徴的な山中漆器においては珍しい作品であるが、こうした技法の作品でも高い技術を習得していたことを示しており、山中漆器の技術の高さを示す資料として重要である。

乾漆八角形瓔珞紋吸物椀の写真

 

 

錆絵龍文鉢
(さびえりゅうもんばち)

員数    1口
所有者    加賀市
指定年月日    昭和55年4月8日


大正時代に活躍した九鬼辰吉の作であり、加飾した特異な龍を描いている。龍の頭を内部から描き始め、鉢全体を取り巻くような勢いで龍の身体を描いている。龍の目には貝が使われ、見る者を見据えているような光を放っている。
錆漆を重ねて描く錆漆の技法を用いているが、使いにくい錆を材料に新境地を開いた作品である。

錆絵龍文鉢の写真

 

 

錆絵龍文杯洗
(さびえりゅうもんはいせん)

員数    1口
所有者    加賀市
指定年月日    昭和55年4月8日


大正時代に活躍した九鬼辰吉の作である。外側に黒漆が施され、内部には龍が錆漆で描かれている。錆漆は重ねて描くことで立体的に描くことができるが、使いにくい材料のひとつである。作者はこの錆漆を使い、より躍動的な龍を描き出すことに成功している。当該作品は錆絵の新境地を開いた苦心作であり、山中漆器の技術の高さを示す作品である。

錆絵龍文杯洗の写真

 

 

古九谷色絵孔雀図平鉢
(こくたにいろえくじゃくずひらばち)

員数    1点
所有者    本善寺
指定年月日    平成2年11月28日


孔雀の構図、筆致が九谷古窯より出土した染付台鉢に描かれた孔雀図と酷似しており、絵具の色合も初期古九谷を思わせる。焼成温度不足からくる貫入(かんにゅう)や黒点がみられ、初期古九谷として位置付けられる。
古九谷研究上、歴史的にも美術的にも極めて価値の高い資料である。

古九谷色絵孔雀図平鉢の写真

 

 

木瓜紋入梅花図三具足
(もっこうもんいりばいかずみつぐそく)

員数    3点
所有者    加賀市
指定年月日    平成10年3月24日


再興九谷を代表する吉田屋窯の名品で、吉田屋6代伝右衛門が越前松森村(現福井県武生市)の準提庵に寄進したものである。
3点すべてに豊田家の家紋である木瓜紋が施され、花瓶と燭台には梅花図が描かれている。花入背面には「文政十三年寅七月豊田伝右衛門寄付」の銘を有し、美術的・資料的に極めて価値が高い。

木瓜紋入梅花図三具足の写真

 

 

卯花絲威二枚胴童具足
(うのはないとおどしにまいどうわらべぐそく)

員数    1領
所有者    加賀市
指定年月日    平成11年1月21日


前田利鬯が安政2年(1854)元服の折、着用したものと伝えられ、装飾技法など加賀具足の特徴を良く示している。
父斉泰・兄慶寧の甲冑に極めて類似していることから、当具足も加賀藩御細工所で制作されたと考えられる。制作年・制作地・使用者が明白で歴史的価値が高く、美術工芸品としても高く評価されており、「加賀具足」の工芸技術を知る上でも貴重な資料である。

卯花絲威二枚胴童具足の写真

 

 

三国仏壇(冬仏壇    夏仏壇)附仏具類一式
(みくにぶつだん(ふゆぶつだん    なつぶつだん)つけたりぶつぐるいいっしき)

員数    2基    附67点
所有者    加賀市
指定年月日    平成13年4月20日


北前船主酒谷家(現・北前船の里資料館)の仏間に安置されているもので、冬仏壇は市内で確認されている三国仏壇の中では最も大きく、仏具類と共に製作技法は三国仏壇の最高峰を示している。
大小2つの仏壇を備え、使い分けをしていたという例は全国的にも珍しく、北前船主の財力を示すとともに、橋立地区に特有の信仰習俗を知る上で貴重な資料である。

三国仏壇(冬仏壇  夏仏壇)附仏具類一式の写真

  

 

古九谷色絵百花手唐人物図大平鉢
(こくたにいろえひゃっかでとうじんぶつずおおひらはち)

員数    1点
所有者    加賀市
指定年月日    平成17年8月26日


色絵古九谷の最高峰とされる百花手様式で、見込みの人物などはきめ細かいタッチで描かれる。現存する古九谷作品の中で最大級の大型品でもあり、古九谷を代表する名品の一つである。

古九谷色絵百花手唐人物図大平鉢の写真

 

 

眉作箱    附内容品
(まゆつくりばこ    つけたりないようひん)

員数    1点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    平成22年1月26日


国指定重要文化財蒔絵角赤手筥や市指定文化財黒地葵紋散蒔絵雛道具とともに、天徳院が奉納したもので、つぼね筆目録にも記載されている。
漆塗製で蓋の甲部に錦裂で遠山紋様を木目込みであしらっている。江戸前期の漆工・染織技術を知る上で貴重な遺品であり、内容品も揃っており、価値が高い。

眉作箱  附内容品の写真

 

 

書跡・典籍

 

【書跡】

伝後光厳天皇宸翰御詠草
(でんごこうごんてんのうしんかんごえいそう)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


当該資料は、後光厳天皇の自筆の書と伝えられる。後光厳天皇は南北朝時代の北朝第4代天皇で、名を弥仁(いやひと)という。書の内容は平安時代の歌人藤原関雄が詠んだ「宮仕へ久しうつかうまつらで  山里に籠り侍りけるに  よめる奥山の岩垣(いはかき)もみぢ散りぬべし照る日のひかり見る時なくて」などの『古今和歌集』断簡である。

伝後光厳天皇宸翰御詠草の写真

 

 

伝後奈良天皇宸翰御詠草
(でんごならてんのうしんかんごえいそう)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


「よろづよも 月のひかりを しきしまや やまと嶋ねに すめるいけ水」後奈良天皇の御詠と伝える宸翰である。後奈良天皇は、室町・戦国時代の第105代天皇。諱は知仁(ともひと)。当時皇室の財政は逼迫しており、即位から10年後の天文5年(1536)に至ってようやく即位式を行なっている。この歌も「すめるいけ水」は「澄める」と「統める」が掛詞になっていることから、実権のない天皇の吐露を表現しているようである。

伝後奈良天皇宸翰御詠草の写真

 

 

社号額書    大覚寺宮筆
(しゃごうがくしょ    だいがくじのみやひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


神門や拝殿等に掲げる社号額のための書である。縦書で「菅生岩部神社」と太字で書かれている。
大覚寺は京都嵯峨野の門跡寺院である。押印文に「寧巌」とあるが、江戸前期の同寺宮門跡は、空性・尊性・性真・性応と続いており、この4人のうちの1人と推定される。
公家や皇族と縁のあった前田家からの依頼によって揮毫(きごう)したものであろう。

社号額書  大覚寺宮筆の写真

 

 

阿弥陀名号    伝菅原道真筆
(あみだみょうごう    でんすがわらみちざねひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


大聖寺藩2代藩主前田利明が、寛文5年(1665)に表具を修理した上で奉納したことが、紙背および箱書にある自筆によって確認できる。
中央に「南無阿弥陀仏」右に「南無観世音菩薩」左に「南無大勢至菩薩」と記され三尊形式になっている。菅原道真の真蹟はほとんど確認されていないが、道真を天神として祀る菅生石部神社に、大聖寺藩主から奉納されたという事実は、前田家が道真を先祖としていることからみても、菅生石部神社を尊崇していたことを証するものである。

阿弥陀名号  伝菅原道真筆の写真

 

 

和歌集写本    藤原家隆筆
(わかしゅうしゃほん    ふじわらのいえたかひつ)

員数    1巻
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


勅撰和歌集の一つである続後拾遺和歌集の第20巻目のみを書写した断簡である。同和歌集は二条為藤、為定の撰で、全体では歌数1347首が収められている。
筆者とされる正三位家隆は藤原北家利基の流れで、鎌倉時代初期に活躍した公卿歌人である。当該資料は歌集の古写本として極めて資料価値が高い。

和歌集写本  藤原家隆筆の写真

 

 

書    伝文覚上人筆
(しょ    でんもんがくしょうにんひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


筆者とされる文覚上人は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧で、源頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺・東寺・高野山大塔・東大寺などの修復を行なった。本資料は楮紙に謹厳な漢文で経論が記されているが題は特定できない。紙質からみても室町時代に降ると推定されることから、文覚自筆とは認めがたいが、加賀藩3代藩主正室天徳院が寄進したと伝えられることから、前田家と当社の関係を知る資料として貴重である。

書  伝文覚上人筆の写真

 

 

法華経題目    伝加藤清正筆
(ほっけきょうだいもく    でんかとうきよまさひつ)

員数    1幅
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


日蓮宗の信者であった加藤清正自筆と伝えられる題目である。中央に「南無妙法蓮華経」右に「慶長十六年正月に廿日」左に「従四位従藤原清正五十歳」と記されている。加藤清正は前田利家とは知己の仲であり、こうした資料が前田家を通じて菅生石部神社に奉納されたと考えられる。

法華経題目  伝加藤清正筆

 

 

歌合集    鷹司左大臣等十人
(うたあわせしゅう    たかつかささだいじんらじゅうにん)

員数    1帖
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


折本に10種の和歌が10人の書き手によって書かれた色紙を貼付けている。筆者は鷹司左大臣等となっているが、鷹司左大臣を含めて具体的な筆者は不明である。三十六歌仙絵と同じく、当社の文芸活動を示す資料であるとともに、前田家による積極的な京文化摂取の事例としても貴重な資料である。

歌合集  鷹司左大臣等十人の写真

 

 

松尾芭蕉筆「やまなかや」の真蹟
(まつおばしょうひつ「やまなかや」のしんせき)

員数    1幅
所有者    加賀市
指定年月日    昭和49年2月5日


松尾芭蕉が奥の細道の途次に山中温泉で詠んだ自筆俳句二句である。山中では泉屋に逗留しており、この真蹟は泉屋の主人久米之助に与えたものといわれている。
嘉永5年(1852)の柿屋主人の由来書によると、寛政年間頃より翁忌にはこれを披露してきたと記されている。

松尾芭蕉筆「やまなか」の真蹟の写真

 

 

太閤秀吉朱印状
(たいこうひでよししゅいんじょう)

員数    1点
所有者    全昌寺
指定年月日    昭和62年10月8日


豊臣秀吉が朝鮮出兵根拠地の肥前名護屋で、大政所の病気を聞き、その対応を関白秀次に指示した書状である。留守を徳川家康、前田利家に頼み、急ぎ帰京するまで養生するよう伝えるよう指示している。
全昌寺に伝来した経緯は不明ながら、我が国の重要な歴史的事実を実証する上で貴重な原本資料である。

太閤秀吉朱印状の写真

 

 

 

【典籍】

洲崎久利筆縁起書1巻    前田利明筆縁起書1巻
(すざきひさとしひつえんぎしょいっかん    まえだとしあきひつえんぎしょいっかん)

員数    2巻
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


当該資料は、州崎久利と大聖寺藩2代前田利明によって書かれた菅生石部神社の縁起書である。文武天皇の慶雲2年(705)に天皇の病気平癒に因んで、創建されたとしている。
この社は延喜式内社であり、白山比め神社に次ぐ加賀第二の大社である。州崎久利筆のものは国文で書かれ、前田利明筆のものは漢文で書かれている。この社の歴史を知る上でも、また当市においても歴史的に貴重なものである。
(注釈  「比め神社」のめの字は口偏に羊)

洲崎久利筆縁起書の写真
洲崎久利筆縁起書

前田利明筆縁起書の写真
前田利明筆縁起書

 

大田錦城遺稿
(おおたきんじょういこう)

員数    143点
所有者    加賀市
指定年月日    昭和34年12月10日


江戸時代後期の儒学者、大田錦城の著作及び講読の際に書き込みがされた蔵書である。
論語など儒教の学問書をはじめとして、漢籍や詩について書き留めた『柳橋日録』の他、東アジア各国の国名や地名をまとめた『海外諸国名録』など幅広い分野に渡り、当時一級の儒者としての栄誉を得た錦城の学才を知り得る資料である。

大田錦城遺稿の写真

 

 

漢詩    高泉筆
(かんし    こうせんひつ)

員数    1点
所有者    薬王院
指定年月日    昭和54年8月23日


高泉性潡(こうせんしょうとん)は江戸時代前期に中国の明から渡来した黄檗宗(おうばくしゅう)の高僧隠元の弟子である。寛文元年(1661)に来日し、延宝3年(1675)加賀藩に招請され、金沢の献珠寺の開山となった。当該資料は高泉が山代温泉に入湯した時に書いた漢詩と伝えられる。

漢詩  高泉筆の写真

 

 

古文書

書状     藤原共方1巻    在庁所1巻    前田利長3巻
            前田利常1巻    前田利治利明1巻

(しょじょう    ふじわらともかたいっかん    ざいちょうしょいっかん     まえだとしながさんかん    まえだとしつねいっかん    まえだとしはるとしあきいっかん)

員数    7巻
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


藤原共方は江戸中期の権大納言梅小路共方のことであろう。後西天皇の皇子安産祈願にかかわる内容である。在庁所は菅生神衆中に宛てた文書で、居入祭の御衣等の神宝について指示した文書である。前田利長・利常は加賀藩2・3代藩主であり、利治は大聖寺藩初代藩主である。こうした判物を送っていることからも加賀・大聖寺両藩から菅生石部神社が篤く信仰されていた証であり、江戸時代における菅生石部神社と公家や藩主一族との関係を知る上で貴重である。

藤原共方書状の写真
藤原共方書状

在庁所書状の写真
在庁所書状

 

社禄書  (足利義持    山口玄蕃    前田利長    前田利常)
(しゃろくしょ  (あしかがよしもち    やまぐちげんば    まえだとしなが    まえだとしつね))

員数    4巻
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


当該資料は室町幕府4代将軍足利義持、大聖寺城主山口玄蕃、加賀藩2代藩主前田利長、3代藩主前田利常による社禄書計4巻である。
足利義持社禄書は現存する市内唯一の中世文書である。山口玄蕃社禄書は当市に唯一残る山口玄蕃の書状で、加賀藩主による社禄書とあわせ、これらの武将の菅生石部神社への厚い信仰をうかがい知ることができる貴重な資料である。

足利義持社禄書の写真
足利義持社禄書

山口玄蕃社禄書の写真
山口玄蕃社禄書

 

吉田屋文書
(よしだやもんじょ)

員数    1,181点
所有者    加賀市
指定年月日    昭和39年8月12日
                     平成17年2月23日追加


大聖寺町の家柄町人豊田家に伝来した近世文書である。屋号を吉田屋という。この文書は「役務」「家」「家業」「文芸」の4つに大別できる。
中でも「家業」の文書群には、4代豊田伝右衛門が九谷焼再興を目指し興した吉田屋窯についての記録が含まれており、大聖寺藩における商家の記録としてだけでなく、近世の磁器生産の実態を知る上でも貴重な資料である。

吉田屋文書の写真

 

 

歴史資料

大聖寺町絵図
(だいしょうじまちえず)

員数    1点
所有者    加賀市
指定年月日    昭和35年10月7日


江戸時代後期の大聖寺の様子を描いた絵図面である。現存する大聖寺町絵図では最も大きく精密な図面であり、居住者名からみて、文化11年(1814)から弘化元年(1844)の間に作成されたものと考えられる。
江戸時代の大聖寺城下町の実態を知る上で、欠くことのできない貴重な資料である。

大聖寺町絵図の写真

 

 

掛仏大日如来像
(かけぼとけだいにちにょらいぞう)

員数    3点
所有者    加賀市
指定年月日    昭和39年11月19日


当該資料3体のうち1体は仏像背後に火焔光背(かえんこうはい)をつけ、円盤に鋲留(びょうどめ)した鋳物製で、室町時代の作と考えられる。
伝承によれば、今立村の個人宅より発見されたものである。この村は白山連峰大日山の麓にあることから、白山信仰にかかわる同山の信仰を示す中世資料として、貴重な存在である。

掛仏大日如来像の写真

 

 

木造虚空蔵菩薩像
(もくぞうこくぞうぼさつぞう)

員数    1躯
所有者    東山神社
指定年月日    昭和59年7月21日


東山神社には木地ロクロの祖として惟喬親王(これたかしんのう)とあわせて、漆技法の守本尊として虚空蔵菩薩を合祀している。この虚空蔵菩薩像は木造で漆塗、金箔を貼り仕上げている。
もとは金沢卯辰山観音院に祀られていたことが厨子裏の銘によって確認できる。明治以降山中温泉薬師地内で祀られ、漆技法の守本尊として崇められてきたもので、明治44年(1911)に現在地に安置された。山中漆器にかかわる信仰を知る上で重要な仏像である。

木造虚空蔵菩薩像の写真

 

 

六地蔵石幢
(ろくじぞうせきどう)

員数    1点
所有者    全昌寺
指定年月日    昭和62年10月8日


供養塔として建立された重制石幢の龕(がん)部のみが残ったものである。全昌寺門前の民家から掘り出されたと伝えられる。側面は同形の六面で、各面に持物が異なる地蔵菩薩像を1体ずつ彫り出して六地蔵としている。
これらの特徴から室町時代に盛行した形式の石幢であり、加賀地方では唯一の確認例で、当市にとって歴史上価値が高い。

六地蔵石幢の写真

 

 

農事遺書
(のうじいしょ)

員数    5冊
所有者    個人
指定年月日    平成2年11月28日


大聖寺藩十村役(とむらやく)を務めた初代鹿野小四郎(かのこしろう)が農事全般の体験や知識、身持ちのあり方を自身の子孫に伝えるため、遺書の形で書き綴った直筆の農書である。
当該資料は5巻からなり、五行思想に基づき天地を構成する元素名で分類され、実践的技術のみならず、自然や作物に対する姿勢まで言及した優れた農書で、我が国の近世農業資料研究の好資料として高く評価されている。

農事遺書の写真

 

 

瀬越町白山神社所蔵船絵馬
(せごえまちはくさんじんじゃしょぞうふなえま)

員数    53面
所有者    白山神社
指定年月日    平成5年12月24日


瀬越は江戸時代から明治中期まで北前船の拠点集落として栄え、白山神社には当該資料である53面の船絵馬が奉納されている。この量は北陸三県において最多を誇る。
これらの船絵馬の中には、船を艫(とも)から見たものや舳先(へさき)から見た珍しい構図があり、絵画史の上からみても重要である。また、海運史だけではなく造船史の上からも、和船から西洋帆船・汽船への移り変わりなど、船の変遷を詳しく知ることができる貴重な資料である。

瀬越町白山神社所蔵船絵馬の写真

 

 

旧大聖寺関所用具
(きゅうだいしょうじせきしょようぐ)

員数    6点
所有者    加賀市
指定年月日    平成9年10月28日


加賀藩の二大関所として重視された大聖寺関で使用していた関所用具6点である。
関所用具は刺又(さすまた)・突棒(つくぼう)・袖搦(そでがらみ)・弓・槍・薙刀(なぎなた)の6点で構成されるが、これがすべて揃って残る例は少なく、歴史上及び学術上価値が高い。

旧大聖寺関所用具の写真

 

 

山代九谷焼磁器焼成窯及び窯道具類
(やましろくたにやきじきしょうせいかまおよびかまどうぐるい)

員数    1基と575点
所有者    加賀市
指定年月日    平成11年4月21日


昭和15年(1940)に築造された九谷焼としては現存最古の本焼窯である。同一敷地内にある吉田屋窯以来の窯跡を縮小した構造となっており、今は失われている窯跡の上部構造を推測する上でも貴重な遺産である。
窯道具類は、この窯で使用されたものと、一部窯跡操業時から継続して使用されたものが含まれており、九谷焼の製作工程を理解する上で欠くことのできない資料である。

山代九谷焼磁器焼成窯及び窯道具類の写真

 

 

真砂村伝来資料
(まなごむらでんらいしりょう)

員数    22点
所有者    個人
指定年月日    平成11年7月1日


山中漆器発祥の地とされる真砂村に伝来し、越前国から来た木地師が所持していたと伝わる資料22点である。近江国愛知郡小椋荘より移住してきた木地師は、本所が保有していた独占販売、材木伐採等の権利など、既得権のお墨付きを貴重な証拠書類として書写し保管した。
当該資料の中には、戦国時代に朝倉氏より発給された文書、朝廷より下された綸旨といった資料の写しの他、惟喬親王(これたかしんのう)より賜ったとされる冠・提灯など、既得権の由緒を主張する木地師の意図を伝える貴重な資料である。

真砂村伝来資料(烏帽子)の写真  真砂村伝来資料の写真

 

 

馬車鉄道客車
(ばしゃてつどうきゃくしゃ)

員数    2両
所有者    加賀市
指定年月日    平成19年11月12日


明治時代後期から大正時代にかけて大聖寺―山中間を往来した馬車鉄道に使用されたものである。現存するものとしては、国内最古の木造車両であり、大正3年(1914)片山津線に転用された後民間に払い下げられ、2両が現在まで伝えられた。
加賀市のみならず近代日本の交通史上においても極めて価値が高く、貴重な実物資料である。

馬車鉄道客車の写真

 

 

創建時大聖寺藩邸図
(そうけんじだいしょうじはんていず)

員数    1点
所有者    加賀市
指定年月日    平成21年6月30日


当該資料は、写本であるが大聖寺藩創設時の藩邸の様子をうかがい知ることができる唯一の資料である。この絵図が書かれた年代ははっきりしないが、紙質、その他から江戸中期以前の写本と考えられる。
この絵図からは正面に大手門を含む長大な長屋が描かれており、御殿正面と中奥背後にも長屋が存在するなど江戸時代前期において、全国的に長屋を多用した藩邸の様相を大聖寺藩でも採用していたことが確認できる。さらに庭園の池にはまだ中島がなく、改造以前の様子を唯一知ることのできる貴重な図面である。

創建時大聖寺藩邸図の写真

 

 

矢口永寿窯素焼窯及び窯道具類
(やぐちえいじゅかますやきかまおよびかまどうぐるい)

所有者    個人
指定年月日    平成22年6月29日


当該資料は、山中温泉の矢口永寿窯に残る九谷焼の素焼窯1基である。製造年は明治42年(1909)であり、加賀市内に現存する焚き木焼成の素焼窯としては、最古のものである。使用者は、初代永寿と2代永寿であり、昭和41年(1966)以降は使用していない。貴重であることから、3代永寿も使用することが許されず、現在は4代永寿が管理している。かつての素焼窯の構造を知る上で極めて貴重であり、焼物製(15点)及び鉄製(13点)の窯道具類を併せて指定する。

矢口永寿窯素焼窯及び窯道具類の写真

 

 

茇憩紀聞原本
(ばっけいきぶんげんぽん)

所有者    加賀市
指定年月日    平成27年1月23日


享和三年(1803)、大聖寺藩士であった塚谷沢右衛門が郡奉行在職中に藩内を巡見し、産物や伝承などをまとめ、編纂した地誌である。
『江沼志稿』(えぬましこう)編纂以前の大聖寺藩内の状況を知る上で価値の高い資料であるとともに、古九谷窯跡についても詳述しており、九谷焼を研究する上でも欠くことのできない文献である。写本が数種類伝わっているが、当該資料はその原本であり、当市にとって貴重な資料である。

茇憩紀文原本の写真

 

 

考古資料

九谷古窯跡出土品
(くたにこようせきしゅつどひん)

員数    一括
所有者    加賀市
指定年月日    昭和34年10月5日


昭和34年(1959)の発掘調査により出土した資料200点である。磁器に染付で職人と思われる名が書かれた色見片や、吸坂手といわれる鉄釉陶磁片などがあり、九谷古窯で生産されていた器種を解明する上での基準となる貴重な資料である。

九谷古窯跡出土品の写真

 

 

分校高山古墳出土品
(ぶんぎょうたかやまこふんしゅつどひん)

員数    44点
所有者    加賀市
指定年月日    昭和35年10月7日


分校町北部にあった前方後円墳より、大正5年(1916)に出土した管玉24個、小玉14個および銅製内行花文鏡(ないこうかもんきょう)の破片である。4世紀ごろの資料と考えられる。
この古墳には石室や石棺等はなく、木棺直葬と思われる。これらの出土品は前期古墳副葬品の典型で、貴重な資料である。

分校高山古墳出土品の写真

 

 

黒瀬瓦窯跡出土瓦(軒瓦瓦当片1点、平瓦1点、丸瓦2点)
(くろせかわらかまあとしゅつどかわら(のきかわらがとうへんいってん、ひらかわらいってん、まるかわらにてん)

員数    4点
所有者    加賀市
指定年月日    昭和35年10月7日


国道8号線脇にあった黒瀬瓦窯跡より出土した軒丸瓦瓦当・平瓦・丸瓦である。軒丸瓦は八葉複弁蓮華文が施され、周縁を雷文が囲んでいる。この様式から、奈良の紀寺式軒丸瓦で、7世紀後半の白鳳時代のものと考えられる。
保賀廃寺跡の出土瓦と同形であることから、この窯跡が同廃寺へ瓦を供給していたことがわかる貴重な事例である。

黒瀬瓦窯跡出土瓦の写真

 

 

宇谷丸山横穴群出土品
(うだにまるやまよこあなぐんしゅつどひん)

員数    76点
所有者    丸山古墳保存会
指定年月日    昭和35年10月7日


昭和32、33年(1957、58)の丸山古墳発掘調査によって出土した遺物である。横穴墓の副葬品としては、一般的な器種構成であるが、ほとんどが完形に近いものである。把手(とって)を有する須恵器の平瓶は焼成時の発色や自然釉等の状況も良好であり、美術品と言っても過言ではない造形である。当時の葬送儀礼を知る上で貴重な考古資料である。

宇谷丸山横穴群出土品の写真

 

 

吸坂丸山古墳群出土品
(すいさかまるやまこふんぐんしゅつどひん)

員数    77点
所有者    加賀市
指定年月日    平成3年11月29日


吸坂丸山古墳群より出土した遺物である。2号墳からは石川県内では初めて鶏形土製品4点が出土しており、5号墳からは衝角付冑や金製細環が発見され、特に肩甲は全国的にも類例が少なく貴重な資料である。当地方の古墳時代首長の勢力や葬送儀礼を知る上で価値が高い。

吸坂丸山古墳群出土品(金製細環)の写真  吸坂丸山古墳群出土品の写真

 

 

分校前山一号墳出土品
(ぶんぎょうまえやまいちごうふんしゅつどひん)

員数    11点
所有者    加賀市
指定年月日    平成20年12月18日


銅鏡は後漢時代の方格規矩鏡で、国内での類例が少ない。鉄製品のうち槍先は茎部に柄の木質部が残っており、黒漆が塗られた柄であったことがわかる。管玉は市指定史跡片山津玉造遺跡で生産されたものであり、玉製作集団の掌握や玉の流通体制を考える上でも興味深い。古墳時代最初期の様相を考察する上で重要な資料である。

分校前山一号墳出土品(銅鏡)の写真    分校前山一号墳出土品(鉄製槍先)の写真

 

 

無形文化財

芸能

お松囃子
(おまつばやし)

員数    1件
所在地    加賀市錦城能楽会
所在地    大聖寺京町(大聖寺地区会館)
指定年月日    昭和46年3月8日


「お松囃子」とは、江戸時代に全国の大名家で正月2日もしくは3日に行われた「謡初め」のことである。大聖寺藩第14代藩主利鬯は明治以降、大聖寺の町民にも能楽を奨励したため、今日まで続けられてきた。
他地域では途絶えた謡初めの行事が地元有志によって現在まで継承されているのは、全国的にも少なく貴重である。

お松囃子の写真

 

 

民俗文化財

有形の民俗文化財

伝潮干玉    潮満玉
(でんしおひるたま    しおみつたま)

員数    2点
所有者    菅生石部神社
指定年月日    昭和34年7月13日


当該資料は、日本書紀に出てくる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火照命(ほでりのみこと)の「海幸山幸」神話の潮干玉・潮満玉と伝えている。神話では彦火火出見尊が兄である火照命を懲らしめるのに使ったとされている。菅生石部神社に伝来した経緯は不明であるが、祭神に彦火火出見尊を祀っていることから伝わったものであろう。民俗資料として他に例を見ないものである。

伝潮干玉 潮満玉の写真

 

 

白山麓の山村生産用具及び製品
(はくさんろくのさんそんせいさんようぐおよびせいひん)

員数    2,406点
所有者    加賀市
指定年月日    昭和51年12月9日


白山麓及びその附近において使用された生産、生活、信仰等に係わる資料である。当該資料は、その点数、種類の豊富さ及び管理状態の完全さからみても、当市および白山麓の民俗を知るうえで大変貴重な資料である。
大部分が国指定重要有形民俗文化財に指定されたが、一部未指定となったため、それらは市指定文化財のままとなっている。

白山麓の山村生産用具及び製品の写真

 

 

無形の民俗文化財

シャシャムシャ踊り
(しゃしゃむしゃおどり)

員数    1件
所有者    シャシャムシャ踊り保存会
所在地    塩屋町
指定年月日    昭和34年12月10日


「シャシャムシャ」とは「笹叢(ささむら)」が訛ったものといわれている。浄土真宗中興の祖、蓮如上人が吉崎御坊を建てた当時、笹で覆われた中を、信者たちがかきわけて登っていく様を盆踊りの振りにしたといわれ、別名「蓮如踊り」とも呼ばれる。
この踊りは夕闇迫る海岸で、提灯とろうそくの灯りの中、波音と手拍子と仏への信心を歌った歌声のみの素朴な踊りであり、伴奏のない初源的な形態を伝える点が貴重である。

シャシャムシャ踊りの写真

 

 

山中節
(やまなかぶし)

員数    1件
所有者    山中節振興会
所在地    山中温泉薬師町
指定年月日    昭和37年11月16日


北前船の船頭衆が湯治の際に歌った松前追分を、山中温泉の浴衣娘が山中なまりで歌ったのが始まりと言われている。
哀調を帯びたその調べは、広く愛唱されてきた。現在では、当市のみならず全国的にも広く知られる民謡の一つとなり、山中温泉の代名詞ともなっている。

山中節の写真

 

 

ごりよび唄
(ごりよびうた)

員数    1件
所有者    動橋民謡保存会
所在地    動橋町
指定年月日    昭和39年1月24日


子どもたちが動橋川で水遊びをするときに歌うわらべ唄で、ゴリを捕まえるときに、「ゴリやゴリや」と歌ったところからこの名前がつけられたという。
わらべ唄は子どもたちの生活を主体とした場で歌われるものであり、このように魚捕りの場で歌われることは珍しく貴重である。

ごりよび唄が歌われたという動橋川の写真

 

 

黒崎土ねり節
(くろさきどねりぶし)

員数    1件
所有者    黒崎土ねり節保存会
所在地    黒埼町
指定年月日    昭和56年7月30日


黒崎町で灌漑用の溜池堤防を作るときや修理の際に歌われた労働歌である。
土踏みの作業では前歌を、棒で叩き締める作業では本歌を歌い、一連の作業の間歌い続けられる。歌詞には作業のつらさしのぎや、収穫への喜びなどが歌われるが、作業が続く限り歌いつづけられるため、即興の歌詞もある。
この民謡は、藩政期より伝えられているものであり、この地方の生活文化の理解に欠くことのできないものである。

黒崎土ねり節の写真

 

 

敷地天神蝶の舞
(しきぢてんじんちょうのまい)

員数    1件
所有者    敷地天神蝶の舞保存会
所在地    大聖寺敷地
指定年月日    平成18年6月27日


「扇の舞」「鈴の舞」「蝶の舞」の3種を総称したもので、明治・大正期には「蝶の舞」がおこなわれていたとの記録があり、それ以前のかなり古い時代から奉納されてきたと推定される稚児舞である。
現在でも毎年7月におこなわれる菅生石部神社天神講で舞われており、加賀地方に残る唯一の稚児舞として貴重である。

敷地天神蝶の舞の写真

 

 

史跡名勝天然記念物

史跡

片山津玉造遺跡
(かたやまづたまつくりいせき)

員数    1件
所有者    加賀市
所在地    片山津町
指定年月日    昭和35年10月7日


片山津町西側の標高30メートル前後の台地上に、4世紀後半から5世紀前半にかけて、古墳時代の石製装身具を作っていた代表的な遺跡である。発掘調査により、住居と工房を兼ねた竪穴住居跡が33基確認され、これらは内部に玉類製作のための工作用穴を持ち、この場所で玉類の製作が行われていたことを示す貴重な遺跡である。

片山津玉造遺跡の写真

 

 

宇谷丸山横穴群
(うだにまるやまよこあなぐん)

員数    1件
所有者    個人
所在地    宇谷町
指定年月日    昭和35年10月7日


丸山は、栄谷町と宇谷町の境界ちかくにある。その西側山腹を取りまくように横穴墓群が築かれており、古墳時代後期のものと思われる。現在12基の横穴が確認され、そのうち11基が指定範囲に存在している。ほとんどの横穴が複室構造で、玄室・前室・前庭部をもち、中には側室を持つものもある。
築造時期は7世紀後半と考えられ、市内では法皇山に次ぐ規模である。

宇谷丸山横穴群の写真

 

 

大聖寺城跡
(だいしょうじじょうあと)

員数    1件
所有者    加賀市
所在地    大聖寺地方町
指定年月日    昭和35年10月7日


大聖寺市街地の西側にある城跡で、藩政期には古城山(こじょうやま)と言われていた。水陸交通の要衝であり、重要な軍事拠点であったため、度々合戦の舞台となった。
天正11年(1583)大聖寺城主となった溝口秀勝の頃、城の縄張りと城下町の原形が作られた。山口玄蕃頭宗永が城主になった後、城代が置かれたものの、一国一城令により廃城となった。江戸時代を通じて入山が禁じられていたため、城跡の保存状態は極めて良好である。織豊時代の城郭の発展課程や発達・伝播を知る上で貴重な城跡である。

大聖寺城跡の写真

 

 

宮地廃寺跡塔心礎
(みやじはいじあととうしんそ)

員数    1基
所有者    宮地町区長
所在地    宮地町
指定年月日    昭和36年8月9日


通称「じょうじゃの釜」と呼ばれる。この付近に建立された宮地廃寺の塔心礎石である。この心礎石を中心として、「テラノマエ」「ヨコモンシタ」「コウド」など寺院に関する地名が残されていることから、約100メートル四方の範囲に寺域が広がっていたと推定されている。出土品より白鳳時代後半期のものと推定されている。

宮地廃寺跡塔心礎の写真

 

 

鏡の池
(かがみのいけ)

員数    1件
所有者    深田町区長
所在地    深田町
指定年月日    昭和37年1月11日


深田町の東側にある約12メートルの小さな池で、名前の由来である鏡が池の底に安置されている。銅製の和鏡で鶴2羽と松の文様が描かれており、平安時代後期以降のものと考えられる。
江戸時代の記録によると、斎藤別当実盛が投げ入れた鏡であるという伝承が残っている。この池の泉は枯れることなく常に湧き出ており、また雨乞いの際にこの鏡を祀ると効果があるともいわれ、古くからの民間信仰の対象としても重要である。

鏡の池の鏡の写真    鏡の池の写真

 

 

柴山貝塚
(しばやまかいづか)

員数    1件
所有者    柴山町区長
所在地    柴山町
指定年月日    昭和37年1月11日


柴山町の北方約300メートルにある半鹹半淡(はんかんはんたん)貝塚である。縄文時代中期に形成されたもので、当時の狩猟漁労生活を物語る貴重な資料が出土している。発掘調査により竪穴式住居跡の他、獣骨や魚骨、石斧・石鏃等が発見され、三角壔(とう)形土製品や土器類も出土しており、縄文時代中期特有の装飾性に富んだものである。日本海側における数少ない貝塚として、また柴山潟周辺の原始文化を表徴する貴重な遺跡である。

柴山貝塚の写真

 

 

都もどり地蔵
(みやこもどりじぞう)

員数    1箇所
所有者    八日市町区長
所在地    八日市町
指定年月日    昭和38年8月9日


平安時代末期の歌人西行法師が北陸巡錫(じゅんしゃく)中郷愁をおぼえ、都へ戻る際、同行の弟子西住と別れ、その後西住は山中の東谷奥村(現・山中温泉西住町)に居住したといわれている。西住は師の面影をしのんで、別れの地である八日市町に身代わり地蔵を建立したと伝えられる。加賀市で最も古い古典文学の伝承地として価値が高い。

都もどり地蔵の写真

 

 

新家理與門の碑
(あらいえりよもんのひ)

員数    1箇所
所有者    個人
所在地    分校町
指定年月日    昭和38年8月6日


明治4年(1871)11月に起きたみの虫一揆の首謀者として捕われ、獄死した新家理與門の碑である。
廃藩置県後の財政状態の悪化により藩政に不満をもっていた農民が、焼き払い、打ちこわしなどの一揆を起こした。一揆参加者の胴みのをつけていた姿がみの虫に似ていたため「みの虫一揆」と呼ばれる。一揆の首謀者として捕らえられた新家理與門は、全責任を負い獄死した。この碑は悪政に立ち向かった庶民的英雄として、その偉業をたたえるために建立されたものである。

新家理與門の碑の写真

 

 

吸坂南古墳群
(すいさかみなみこふんぐん)

員数    1件
所有者    個人
所在地    吸坂町   黒瀬町
指定年月日    平成元年6月23日


吸坂町・黒瀬町にかけての丘陵上にある丸山支群2基と、イカリ山支群6基である。丸山支群は発掘調査の結果、古墳時代初頭から前期末にかけての方墳3基と中期の円墳3基が築造されていたことが確認され、貴重な副葬品も出土している。イカリ山支群は1号墳が円墳である他は、方墳を中心とした小規模古墳からなり、丸山支群とほぼ同時期と推定される。未発掘で保存が計られた古墳が指定対象となっている。

吸坂南古墳群の写真

 

 

冨塚丸山古墳
(とみつかまるやまこふん)

員数    1基
所有者    冨塚町区長
所在地    冨塚町
指定年月日    平成6年10月25日


5世紀後半に築造されたとみられる円墳である。現存する墳丘の裾は直径約60メートルである。大半は盛り土で、体積では狐山古墳を上回り、同古墳に後続する首長の墳墓と考えられる。
南加賀の古墳文化を知る上で欠くことのできない遺跡であり、当市にとって歴史上及び学術上価値が高い。

冨塚丸山古墳の写真

 

 

分校古窯跡群
(ぶんぎょうこようせきぐん)

員数    1件
所有者    加賀市
所在地    分校町
指定年月日    平成20年12月18日


出土須恵器から、窯は6世紀後半から7世紀前半にかけて操業していたと考えられ、現在確認されている窯業遺跡としては市内最古であり、石川県内でも小松市豆岡向山古窯跡に次いで最古級のものである。現代に続く窯業のルーツの一端と捉えることができ、九谷焼を始めとする加賀市の代表的産業である窯業史を研究する上で欠くことのできない貴重な窯跡である。

分校古窯跡群の写真

 

 

大聖寺藩主前田家一族廟所
(だいしょうじはんしゅまえだけいちぞくびょうしょ)

員数    1件
所有者    実性院
所在地    大聖寺下屋敷町
指定年月日    平成22年1月26日


大聖寺藩主前田家及びその分家にあたる家老家の廟所である。藩祖から最後の14代に至る歴代藩主の墓が一つの敷地にすべて揃っている全国でも数少ない例であり、正室側室子女の他、藩祖に殉死した3名の墓も含まれている。臣下に降った分家も一段下った敷地に存在しており、封建時代の主従関係を示している。

大聖寺藩主前田家一族廟所の写真

 

 

分校古墳群前山支群
(ぶんぎょうこふんぐんまえやましぐん)

所有者    分校町町内会外
所在地    分校町
指定年月日    平成23年7月22日


分校古墳群は分校町前山、チハカ山、松山町大山の三支群からなる。前山支群は3世紀に遡る古墳群で、加賀市では最古と判断される前方後円墳4基が尾根上に分布しており、円墳、方墳合せて30基以上があったと推定される。一部が過去の土砂採取で消滅しているが、現在23基が確認されている。当市にとって歴史上貴重な遺跡である。

分校古墳群前山支群の写真

 

 

大聖寺藩邸河道跡及び北面石垣
(だいしょうじはんていこうどあとおよびほくめんいしがき)

所有者    江沼神社
所在地    大聖寺八間道
指定年月日    平成23年12月21日


旧大聖寺川に面する藩邸河道は幅約11メートルで、11段の階段が設けられていた。北面石垣は、軟弱地盤に設けられながら、崩落することなく大部分が遺存しており、江戸中期における土木技術の高さを示すものとして貴重である。
大聖寺藩邸の石垣は、北面が唯一当初のまま残されており、河道とともに史跡として価値が高いと判断する。河道跡は復元整備されている。

大聖寺藩邸河道跡及び北面石垣の写真

 

 

大聖寺関所跡
(だいしょうじせきしょあと)

所有者    特定非営利活動法人  歴町センター大聖寺
所在地    大聖寺関町
指定年月日    平成26年7月23日


大聖寺関は加賀藩前田家の領国支配上重要な関門として、慶長9年(1604)に越中境関とともに設置され、加賀藩の二大関門として最も重要視されていた関所である。
当該地は関所番所が建っていた敷地の一部であり、所有者によって関所門が場所を移動して復元され、かつて存在していた関所を顕彰する場所となっている。

大聖寺関所跡の写真

 

 

名勝

旧大聖寺藩邸庭園
(きゅうだいしょうじはんていていえん)

員数    1件
所有者    江沼神社
所在地    大聖寺八間道
指定年月日    昭和35年10月7日


宝永6年(1709)大聖寺藩3代藩主前田利直により造園されたと伝わる。
池を中心にして錦城山側の西端に築山を配置し、豪壮な自然石を組んで深山幽谷を表現している。かつての池の導水は東端からで、深山渓谷を表す豪快な石組みを経て石橋を潜り、玉石敷きの間を流れて池に注いでいたようである。
当該庭園は、外苑的池泉廻遊式庭園として価値が高い。

旧大聖寺藩邸庭園の写真

 

 

天然記念物

小塩辻白山神社巨木群
(おしおつじはくさんじんじゃきょぼくぐん)

員数    1件
所有者    白山神社
所在地    小塩辻町
指定年月日    昭和62年10月8日


神社の社叢(しゃそう)として保存されてきた巨木群で、当地における自然林の原形を示す樹種が多いのが特徴である。なかでもケヤキ・スダジイ・タブノキが特に大きく、樹齢は少なくとも500年を超えると推定される。
当該神社の巨木群は樹勢が盛んで、保存管理状態も極めて良好である。これらは、当地域における自然植生の特徴をよく示す貴重な存在である。

小塩辻白山神社巨木群の写真

 

 

小塩辻十村屋敷跡スダジイ巨木群
(おしおつじとむらやしきあとすだじいきょぼくぐん)

員数    1件
所有者    個人
所在地    小塩辻町
指定年月日    昭和62年10月8日


旧大聖寺藩十村役(とむらやく)を務めた鹿野家屋敷跡の巨木群で11本のスダジイからなる。
幹周は最大のもので、8.73メートル、樹高21.5メートルで、地上約1.2メートルで五枝に分かれている。樹齢700年を超えると推定され、全国的にみても最上位の大きさである。他の10本も樹齢300年以上と推定され、県内では数少ないシイの巨木群として貴重な存在である。

小塩辻十村屋敷跡スダジイ巨木群の写真

 

 

 

宗寿寺のスダジイ
(そうじゅじのすだじい)

員数    1本
所有者    宗寿寺
所在地    大聖寺神明町
指定年月日    平成元年3月23日


宗寿寺山門脇に位置する。地上7~11メートルの主幹上に寄生木のヤマウルシ・ウメモドキ・タブ・ネズミモチ・ハイイヌツゲ・ツタウルシの6種の樹木を着生させているのが特徴である。かつては主幹頂部に杉がそびえており、特異な景観をしていた。また、その大きさも稀である。
多種の樹木が着生していることが珍しく、景観も特異であり、当地方の自然植生を示す貴重な例であるとともに、植物学上価値が高い。

宗寿寺のスダジイの写真

 

 

桂谷の大杉
(かつらたにのおおすぎ)

員数    1本
所有者    菅原神社
所在地    桂谷町
指定年月日    平成6年6月29日


幹周約7メートル、高さ37.5メートルを測り、県内でも有数の規模を誇る。桂谷町菅原神社社殿の前に位置し、古来より神木として崇拝されており、良好な状態で保存されている。
樹体の大きさ、樹勢の良好さ及び樹形の美しさから見ても、当市にとって、植物学上及び自然環境保護上、貴重な樹木である。

桂谷の大杉の写真

 

 

分校の大山桜
(ぶんぎょうのおおやまざくら)

員数    1本
所有者    分校町区長
所在地    分校町
指定年月日    平成8年5月27日


分校町ヌ73番地に所在する大山桜は、胸高幹回り3.81メートル、高さ約15メートルで、県内でも有数の規模を誇る。
大きさや樹勢の良好さ及び、花色、樹形の美しさなどから見て、当市にとって植物学上及び自然環境保護上からも価値が高い。

分校の大山桜の写真

 

 

八幡神社のスダジイ
(はちまんじんじゃのすだじい)

員数    1本
所有者    箱宮神社
所在地    箱宮町
指定年月日    平成8年5月27日


箱宮町の旧八幡神社に所在するスダジイは、九幹株立となっているが、もとは一株で主幹が腐朽し脇幹のみが残った可能性が高い。幹周総計がで16.73メートルを測り、市内最大規模を誇る。
大きさと樹勢の強健さ及び樹形の美しさなどから見て、当市にとって植物学上及び自然環境保護上、価値が高い。

八幡神社のスダジイの写真

 

 

下谷白山神社のタブノキ
(しもたにはくさんじんじゃのたぶのき)

員数    1本
所有者    白山神社
所在地    山中温泉下谷町
指定年月日    平成10年2月1日


下谷町白山神社境内に自生する巨木で、大きさは全国的にみても上位に入る。
温暖な海岸近くの土地を主な生育地とするタブノキが山間地のこの地に自生するのは極めて特異であり、その意味からも貴重な樹木である。

下谷白山神社のタブノキの写真

 

 

熊坂モモノキ調整池の水生植物群落
(くまさかもものきちょうせいいけのすいせいしょくぶつぐんらく)

員数    1件
所有者    加賀市
所在地    熊坂町(加賀市環境美化センター内)
指定年月日    平成14年1月23日


加賀市環境美化センター建設の際、調整池建設予定地に絶滅危惧2種の希少植物であるミズオオバコの自生が確認された。ビオトープ池として整備され、現在ではミズオオバコ以外にも絶滅危惧1種のリュウノヒゲモやキクモなどの生育が確認され、また、昆虫類や鳥類も生息するなど谷地田環境が復元されつつある。
開発行為等に伴い、このような植生は激減しており、良好な環境として残った地域は極めて少なく、本来の自然植生を知る上で、貴重な存在である。

熊坂モモノキ調整池の水生植物群落の写真

 

 

荒谷神社シダレザクラ群
(あらたにじんじゃしだれざくらぐん)

員数    4本
所有者    荒谷神社
所在地    山中温泉荒谷町
指定年月日    平成15年4月7日


エドヒガンの変種で、枝がしだれるのが特徴である。4本のうち最も大きなものは、幹周2.8メートルを超える。樹高・樹径ともに、県内のシダレザクラの中で最大を誇る。しかし、植樹されたのは昭和24年で、特筆するような老木ではない。巨木になる要因として、年数だけではなく、土壌や気候などの環境が重要であることを示す貴重な例である。

荒谷神社シダレザクラ群の写真

 

 

尾俣町のアサダ
(おまたまちのあさだ)

所有者    白山社
所在地    尾俣町
指定年月日    平成22年6月29日


カバノキ科のアサダは樹皮に特異な外観をもつ落葉高木である。石川県最大級のアサダで、幹周りは3メートルを超える。令和3年5月の時点で、日本全国で同様の大きさのアサダは15本しかない。全国的に貴重な樹木である。

尾俣町のアサダの写真

 

 

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