九谷焼とは
九谷焼の歴史を江戸時代前期、江戸時代後期、明治時代~昭和時代前期、昭和時代後期~現代、という4つの時期に区分してご紹介します。
九谷焼は少なくとも365年以上の歴史と、その中から生まれた様々な絵付け様式があります。
九谷焼の歴史
1.九谷焼の誕生(17世紀前半)

江戸時代前期は、九谷焼が誕生した時期です。
九谷焼は、大聖寺藩を治めていた初代藩主の前田利治のもとで、少なくとも明暦元(1655)年には存在していた磁器です。開窯の年は正確にはわかりません。鉱山開発の最中に、領内の九谷村で磁器の原料となる陶石が発見されたことがきっかけとなり、磁器の生産が始められたと言われています。陶石の産地となった九谷村に、磁器を焼くための窯を築いたことで、その地名にちなんで「九谷焼」と呼ばれるようになり、ほかに「大聖寺焼」とも呼ばれました。つまり、大聖寺藩を前身とする石川県加賀市はまさに九谷焼の「発祥の地」であり、九谷村(現在は九谷町)は九谷焼作家や九谷焼コレクターの人々の「聖地」となっています。

後世、江戸時代前期のこの時期に作られた九谷焼は、「古九谷」—古い九谷焼—と呼ばれ、その青手や色絵の美しい絵付けのスタイルとともに、磁器の職人や知識人たちの間で特別視される名作として、大切に受け伝えられてきました。
はじまりがあれば、いつかは終わりがあります。古九谷の窯は少なくとも50~60年の活動後、生産を終了します。閉窯の理由は、大聖寺藩の財政難による窯の資金不足や、藩主の代替わりをきっかけとする政策の方針転換など、いくつか想定されますがよくわかっていません。
2.九谷焼の復活(19世紀)

古九谷の制作中止以降、九谷焼の技術は細々とながら地元において受け継がれていたと考えられています。江戸時代後期は、大聖寺藩領内、加賀藩領内の方々において、古九谷の復活に向けて大々的に九谷焼の窯々が興った時期です。この時代に生まれた九谷焼を「再興九谷」と呼んでいます。「古九谷」という言い方がされるようになったのは、この「再興九谷」以降です。
大聖寺藩は加賀藩の支藩です。古九谷の制作中止から約100年後、加賀藩領内の金沢や小松で磁器生産が再開されました。京都等の磁器職人の技術指導等によって、加賀国 (現在の石川県) で再び組織的に磁器が作られ始めたのです。再興九谷の中で、古九谷の独創的なデザインに惚れ込み、膨大な私財を投じ、九谷焼の復活を目指す人物が大聖寺に現れます。その名は、豊田伝右衛門です。

大聖寺の城下町に住む有力商人であった彼は、九谷焼、なかでも青手古九谷の復活を強く願い、文政7(1824)年、九谷村の古九谷の窯の隣に磁器制作のための窯を築きました。その窯は、彼の屋号 (吉田屋) にちなんで「吉田屋窯」と呼ばれ、古九谷に迫る芸術性と品質で、当時の富裕層や知識人から好評を博しました。しかし、採算を度外視した品質の追及は吉田屋窯の経営を苦しめ、経営建て直しのために交通の便が良い山代温泉に窯を移したものの、約7年後の天保2(1831)年には閉窯しました。
山代の吉田屋窯は、閉窯直後、現場の支配人であった宮本屋宇右衛門へと引き継がれ、「宮本屋窯」として再開します。宮本屋窯は赤絵スタイルで名を挙げました。主任の絵付け職人だった 飯田屋八郎右衛門が赤絵の緻密な描写に秀でたことから高い評価を受け続けた宮本屋窯は、吉田屋窯と同じ民営の窯でありながら約28年の操業を続けました。

嘉永元(1848)年、大聖寺藩領内松山村に、大聖寺藩が新たに「松山窯」を築きました。松山窯は別名御用窯とも言われ、まじめで出来の良いものが多くあります。明治政府によって藩の組織が解体されるまでの間、後の時代に活躍する職人を育てながら、松山窯は青手の九谷焼制作に取り組みました。
3.名工の誕生と産業隆盛(19世紀末 – 20世紀前半)

明治時代~昭和時代前期は、窯元の職人たちが作家として自立し、さらには江戸幕府を継承した明治政府の産業振興により、九谷焼の輸出産業が盛んになった時期です。
明治維新を境に、江戸幕府から明治政府へと政権が移ったことにより、窯元は藩からの支援が得られなくなり、自活による経営が迫られるようになりました。
旧大聖寺藩の職人たちは、作品の品質をさらに高めることで、「窯元の中の一職人」から「美術工芸品の作家」へと変貌を遂げました。彼らの中から、絵付け技術の指導的立場で次世代の作家をリードした竹内吟秋・浅井一毫兄弟や、書や食のジャンルで幅広い活躍をした北大路魯山人と交流した初代須田菁華などの名工が輩出されました。

一方で、旧加賀藩の職人たちは、輸出産業に活路を見出し、金彩をふんだんに施した赤絵の九谷焼を中心に、欧米向けの作品を数多く生産しました。彼らの中心となったのが、赤絵と金彩による精密な色絵付けで名高い九谷庄三です。
4.「現代芸術」としての九谷焼(20世紀後半 –)

昭和時代後期~現代は、伝統的な美術工芸品としてのブランドを確立した九谷焼が、現代芸術の要素を取り入れて、「工芸品」の枠を超えた「美術品」として制作されるようになった時期です。また、新たなライフスタイルにあわせた多種多様なデザインの器が生み出されることも、現代九谷焼の特徴です。
古九谷をはじめ大聖寺藩以来の伝統を守り伝える加賀市では、伝統的な色絵の技法をもとに、中近東のエキゾチックなデザインや彫刻による飾り付けなどを取り入れて独自の作風を築いた、北出塔次郎・不二雄親子が現代九谷焼作家をリードしました。

また、加賀市に隣り合う小松市では、色絵の具のグラデーションによる鮮やかな絵付けを完成させた三代徳田八十吉や、金の飾り付けを釉薬でコーティングすることにより上品な輝きを放つ作品に仕上げた吉田美統が、日本政府から「人間国宝」の認定を受けました。
絵付け様式
青手

緑の色絵の具を印象的に配色して、絵付けされたスタイルです。素地の余白をほとんど余すことなく、器全体に色絵の具を鮮やかに塗る (「塗り埋め」) ことも、青手の特徴です。
作品の見どころは、器全体を彩る“塗り埋め”ならではの鮮やかな発色と、濃厚な色づかいから生み出される大胆なデザインです。
青手の作品は、古九谷をはじめ、再興九谷の吉田屋窯、松山窯など、江戸時代の大聖寺藩領内を中心に数多くの名品が生み出されました。九谷焼を代表する絵付けとして、日本の色絵磁器の中でも異彩を放つ、独特な様式といえます。
色絵(五彩手)

「九谷五彩」と呼ばれる、緑・黄・紫・紺青・赤の色絵の具を自在に活用して、絵付けされたスタイルです。5色の色絵の具をフル活用することから、「五彩手」とも呼ばれます。器の中央に、作品のモチーフを絵画的・写実的に描くことも、色絵の特徴です。
作品の見どころは、屏風や掛軸から器へ抜け出してきたかのような絵画を描いた、熟練された絵付けの筆づかいです。
特に色絵の古九谷は、中国の明王朝末期から清王朝初期にかけての色絵磁器がモデルになっているとも言われ、大皿 (大平鉢) から小皿 (端皿) に至るまで、中国風の人物・動物・山水 (風景) を見事に描写した名品が数多く残されています。
赤絵 (金襴手)

にじみにくい赤の色絵の具の特性を活かして、器全体に「細描」と呼ばれる細かい描き込みを施したスタイルです。赤の色絵の具のほかに、金の飾り付けで華やかに彩られた作品が多いことも、赤絵の特徴です。背景を赤で塗り埋めた器に、金で絵付けしたスタイルは、赤絵のなかでも特に「金襴手」と呼ばれています。
作品の見どころは、職人の高い技術が要求される「細描」の緻密な絵付けと、金の飾り付けによる、絵柄と色の華やかな取り合わせです。
九谷焼の赤絵は、京焼の名工: 青木木米の指導により金沢の春日山窯で制作された作品がもととなり、その後、宮本屋窯で腕をふるった飯田屋八郎右衛門が細描の様式を確立し、近現代の赤絵作品のルーツとなりました。