農林21号について

更新日:2020年10月15日

原産地の北陸によみがえった伝説の米 水稲農林21号の物語

稲穂が一列にずらりと並んだ畑の写真

 私たち「かが有機農法研究会」は平成27年度から加賀市の支援を受け、「水稲農林21号」(以下、農林21号)を新たな特産物とすることを目指し、その栽培に挑戦しています。

“伝説の米”農林21号とは

 農林21号は、1943年(昭和17年)に当時の農林省北陸農政局試験場で農林1号(後のコシヒカリの父系品種)を父系に、母系には明治時代に京都で生まれ、とても美味しいことで知られた「旭(あさひ)」という品種を交配して生まれた品種です。
 コシヒカリとは、異母兄弟の関係にあたる品種ですが、当時の良食味品種として“東西の両横綱”と評されていた「農林1号」と「旭」を交配させた農林21号は、血筋からすればコシヒカリ以上の“食味のサラブレッド”とも言うべき品種でした。事実、経済成長を果たし豊かになった日本の食卓で、ササニシキとコシヒカリが銘柄米の両横綱としてもてはやされていた時代においても、「一番旨い米は農林21号だ」と食通から支持され、高い評価を受け続けていたと言われます。首都圏のこだわり米殻店の経営者や江戸前の寿司職人達の間でも、農林21号の美味しさは“レジェンド”として今も語り継がれているのです。

最後の生産地・福島で途絶えた“銀シャリ”の命脈

 その美味しさから高く評価された農林21号は、北陸、東北を中心として、1949(昭和24)年には60,000ヘクタールまで作付けが拡大し、特に福島県では、16,000ヘクタールを越えてトップ銘柄になった品種です。戦後の貧しい復興期に「銀シャリ」として多くの人々を力づけ、食卓を支えてきた農林21号ですが、手植え時代の米づくりを前提に生まれた古い品種のため、田植え機などの農業機械や、農薬・化学肥料の普及に伴う近代化の中で、次第に「作りにくい品種」として農家に敬遠されるようになりました。一番の理由は、茎が細いために倒れやすく、密植して化学肥料で高い収量をあげる近代農法との相性が悪かったからです。そのため、異母兄弟のコシヒカリなどの新しい品種に押される形で次第に作付けする地域が少なくなり、いつしか、「幻の米」と呼ばれるほど希少な存在となってしまいました。
それでも、その美味しさを知る食通たちの要望に応えるため、細々と栽培が続けられていたのが、かつての一大産地であった福島県でした。しかし、東日本大震災の中で発生した福島第1原発事故の2年後に、その最後の命脈も途絶えてしまったのです。
 私たちが「幻の米」の種籾を求めて福島県の生産地を訪ねたのはその翌年のこと。既に、かつての生産者のもとにも、県の農業試験場にも農林21号の種籾は残っていませんでした。激動の昭和17年に生まれた農林21号は、東日本大震災後の影響を受ける中に、ついに最後の生産地を失い、文字通り“伝説の米”となってしまったのです。

原産地の北陸で子供たちの手で復活!

 農林21号の生産地が途絶えてしまっていたことを知った私たちは、自分たちの手で、そして農林21号の原産地である北陸の地で何としても復活させたいと願うようになりました。そして茨城県つくば市の農業生物資源研究所(ジーンバンク)に、農林21号の種籾が残っていたことを突き止め、同研究所からひと握りほどの種籾を分けて頂きました。
 しかし、ひと握りの種籾から生産用の種籾を栽培するには、自分たちの田んぼでは心配でした。イネは開花時に風を受けて受粉する植物です。万が一にも雑種化してしまう可能性を避けるためにも、周囲にコシヒカリなどのほかの品種が栽培されている環境では、このとても貴重な種籾を栽培することができませんでした。そこで加賀市が地域の小学校に協力を打診し、地元の母校でもある加賀市立湖北小学校の学習用圃場で種籾を栽培してもらえることになりました。0.5アールほどの小さな小さな田んぼですが、付近に他の田んぼのない小学校の校庭の中で、完全に純粋な農林21号が復活することになったのです。
 農薬も化学肥料も普及していない時代の品種ですから、この学習用圃場でも一切の農薬も化学肥料も使わないので、夏休みの登校日には生徒も先生も泥だらけになっての雑草取り作業をして頂きました。

田んぼに入り田植えをしている子供たちの写真

学習用圃場で農林21号の田植え学習をする湖北小学校の児童たち(2015年6月)

青く育った苗の中で雑草取りをしている子供たちの写真

夏休みも登校日に雑草取りをしました。

収穫した苗をバックに子どもたちと農家の方々との集合写真

9月下旬には無事に収穫日を迎えることができました。

いよいよ生産圃場での完全復活へ!

 こうして子供たちが育ててくれた種籾は、30キログラム足らず。これは貴重な生産用の種籾として私たちが預かり、子供たちには無農薬のコシヒカリ「加賀のティール」を進呈しました。育ててくれた子供たちに農林21号の試食をさせてあげられなかったのは心苦しいところでしたが、翌年の生産圃場での栽培が成功した暁にはみんなでお祝いの試食会をしようと約束しました。

 そして翌年の2016年(平成28年)、満を持して生産用の農林21号の苗を育てている最中の私たちの元に、かつての生産地であった福島県の農家から思わぬ問合せが来ました。それは、地域の活性化の起爆剤として農林21号をもう一度よみがえらせたいと思ったものの、どこをさがしても種籾が見つからず、困り果てていたところに私たちの取組みを知り、なんとか種籾をわけてもらえないかというものでした。
 地域の子供たちの取組みが被災地の人々の希望につながるなら、私たちにとっても勇気付けられることにもなります。あいにく種籾はすべて苗づくりに使ってしまった後だったので、私達の生産用の苗を少なめに植え、お分けする苗を残すことにしました。
 そして今年(平成28年)の湖北小の5年生たちが田植え学習をする日、はるばる福島から駆け付けた農家たちに、子供たちから苗を渡してもらいました。
 加賀と福島の両地域で環境に配慮した共生農業と地域づくりの環が広がることを願っています。

ビニールシートの上で機械を使って脱穀作業をしている子供たちの写真

足踏み脱穀法での脱穀作業。徹底的に当時の方法で種籾を育て上げました。

たくさんの苗を持った子供たちと農家の方々との集合写真

翌年の田植え学習の日、福島から駆け付けた農家たちに子供たちから希望の苗が手渡されました。

 さて、私たちの生産圃場の農林21号も、無事に収穫を迎えることができました。もともと北陸の気候の中で生まれた品種ですから、地域に合った品種という自信はありました。ただ、コシヒカリに比べると収量が落ちることは否めません。農林21号は茎がとても細いので、コシヒカリと同量の稲穂をつけると重みで倒れてしまうのです。このため、無農薬の栽培圃場ではあえて窒素分の肥料を与えない「栽培圃場無施肥」の農法で育てあげました。収穫よりも品質を高めることを優先した選択です。食通たちが追い求めたその柔らかな粘りと甘み、上品な食感を、ぜひお確かめ頂ければと思います。

稲穂を持って笑顔の農家の男性2名の写真

2年がかりでついに迎えた初収穫の日。多くの人々の希望と共に船出です。

道場六三郎様からのメッセージ

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