【能楽インタビュー】 加賀市の能楽文化と歴史 聞き取り調査(1)

更新日:2026年01月08日

金沢能楽会 笛方能楽師 吉野晴夫さんにお話しを伺いました

プロフィール

 

吉野 晴夫(よしの・はるお)氏
森田流 笛方

昭和17(1942)年、石川県加賀市大聖寺生まれ。
昭和40(1965)年頃に錦城能楽会に入り、間もなく麦谷清一郎氏のもとで能管を学び始め、その後東京で故 寺井政数氏に師事。昭和46(1971)年ごろには金沢能楽会、昭和51(1976)年には日本能楽協会員となり、金沢を拠点に笛方として出演を重ねる。平成14(2002)年に重要無形文化財総合指定に認定。石川、富山で能管教室を開き、能の笛の普及に力を入れるほか、加賀市学校能楽研究会を主宰し、加賀市教育委員会、金沢市教育委員会と協力し、邦楽教育に取り組んだ実績を持つ。

(令和8年1月現在)
公益社団法人 日本能楽会会員
公益社団法人 金沢能楽会相談役
石川県能楽楽師会

 

1 吉野晴夫さんについて

(1)家業のこと

大聖寺の羽二重

ーまずご自身のことについて、お話しいただけますか。
昭和17年生まれで、もう83歳になる。
自分のうちは、織物の工場していて、羽二重を主に作っていた。今は着物にしか使ってないけど、羽二重は目が詰んで、絹だし薄いから、軽いし。それで戦時中は軍需産業で、落下傘、パラシュートに使ったものだから、うちの会社は、軍に取られてしまった。代わりに、会社の向かい側にあった試験場をもらった。

技術はあったから、羽二重を織って、生計を立てた。織っているものは良いものだった。羽二重は、緯糸(よこいと)は濡れている。パラシュートにするぐらい、全部組み合わせがきちっとして、くっつかないといけないから。それで経糸(たていと)に糊をつけて、緯糸は湿らせて「しめしぬき」って言って。「抜き糸」とも言うんだけどね。それをうちつける。それで羽二重はつるつるになる。

 

ーそうなんですね。確かにつるつるなイメージです。
だから裏地も薄くてつるつるで。それで、うちは伊勢神宮の遷宮の時に、神様を隣の祠へ移すときに、ご神体を包むというか、囲うのに使われた羽二重を織っていた。それは寸法も、折り目も全部決まっている。あとは、普段伊勢神宮に行くと、神様が直接見えないように大きくて白い、きれいな裂が下がっているけどそれも織っていた。それから天皇陛下の新嘗祭という大事なお祭りの時にも、献上した。

戦前の大聖寺では何軒か、羽二重を織っていた。戦後になったら、あんまり…うちだけだったかもしれないけど。大聖寺の羽二重は、その頃には宮内庁や、伊勢神宮などから依頼があった。それからタイプライターのリボンとかね。ヨーロッパの貴族になると、シルクのワイシャツを着るんだね。羽二重の、絹のワイシャツを着る。日本人みたいにナイロンじゃない。

 

ー先生のおうちの会社では何人ぐらい働かれていましたか。
覚えてない。戦争中はむちゃくちゃ大きかった。もともと江戸の終わりぐらいから織物の問屋を始めて。それで、庄のあたりが桑の産地だったんで、桑をいっぱい作って、そして大聖寺近辺で蚕を飼うのが流行った。明治になってから、織物をやりだしたのではないかと思う。

 

京都での修行

ー先生は京都に織物の勉強に行っていたのですか。
織物だから、京都に行かないと。京都の染織試験場っていうのがある。系列からいうと、京都市立だけど。高校を出てから、そこに行って研修を受けた。自分のところの工場にいきなり入っても、訳が分からないから、どこかに行って習ってこないと。いくら自分のところでも、知らない者が入ってもね。自分の親戚の者で京都工芸繊維大学の先生をしている者がいて、その人がおいでっていうので京都に行った。試験場に教えに来る人は、そこの技術者と京都の工芸繊維大学の先生で、紋織になると西陣の織物の技師が来た。

そこには、二年ぐらい通った。織機が違うから、羽二重の者が紋織を習っても仕方ない。織物の理屈だけ習えば良いので。

 

※明治41(1908)年に西陣織物同業組合によって設立。 その後大正5(1916)年に京都市が寄贈を受け,京都市染織試験場が開設。 染織やデザイン等の研究や後継者育成等に取り組み、平成15年(2003)に京都市産業技術研究所繊維技術センターと改称。

(2)能楽を習い始めたときのこと

大聖寺にあった謡の風習

ーお父様や周りの方は、何か能楽をされていたのでしょうか。
昔は、何かの節目に謡を謡う風習が大聖寺にあったから、大聖寺の商売屋の者は、みんな謡をしていた。だけど時代変わって、謡を謡う場所がなくなった。
大聖寺付近ってね、家建てると、「建ち前(たちまい)」っていう上棟式をする。四本(しほん)柱を立てて、床だけ根太(ねた)を打った上に床板を並べて。職人さんや大工さん、手伝いに来た人たちみんな、そこで施主の出した小蓋(こぶた)で、お酒を一杯飲んだ。そうすると、「お肴(さかな)を」と言われる。そのときに、何かしないといけない。それが芸事だった。それでおめでたい謡を謡う。

家を建てたときに謡う謡があって、おめでたい言葉ばっかり習う。「庭の砂(いさご)は金銀の」とか。酒盛りのうたもあった。『鞍馬天狗』なんかそう。それから婚礼用の謡とか。昔は酒を飲んだら何でも謡わないといけないから小謡専用の本が売っていた。今じゃそういう本は売っていない。

 

ー「小蓋」とは何でしょうか。
昔は料理を、小さい折(おり)に入れて渡した。基本的には、そこで酒を飲む。だから、酒飲ます酒のつまみのこと。「御小蓋」って「御」がついていた。

 

 

※ 能『鶴亀』の一節。

謡から笛方に

ー謡のお稽古に行かれたのは、何歳頃でしょうか。
京都から帰ってきてからだから、二十歳すぎくらい。昭和40年ぐらいだね。

学校が終わると、大聖寺の人は謡の稽古に行く風習があって、それで自分も謡のお稽古に行った。自分の先生は金沢の人で、早稲田の能楽部でも謡をやっており、ものすごく上手だった。折角習うならその人に習えば良いってことで、そこへ謡を習いに行った。同じ織物関係者でもあるし。織物組合に行ったら、顔を合わせることもあった。(織物組合は)今は駅舎の線路の向こう側に行ってしまったけど、当時は錦城小学校の京町の前の角にあった。

謡の稽古は、仕事終わってから行くものだった。大聖寺には何かが終わると謡を謡うっていう文化っていうのがあったから。同じように先生のところで謡を習っている人が、何人かいた。

 

ーお稽古は謡の先生のお家でされたんですか。
先生は全昌寺の近くに住んでいて、そこへ稽古に行った覚えがある。当時は家内が琴を弾いていて、自分は琴と合わせるために尺八を稽古していたけど、錦城能楽会の人から「縦の棒吹けるんなら、横でも吹けるでしょ」って言われて。(錦城能楽会に)笛がいなくて困っているんだけど、音が鳴るんだったら稽古してくれないかっていう話で、それで笛方にかわった。

 

(3)金沢能楽会で活動するようになるまで(~昭和50年代)

ー錦城能楽会で、笛をはじめられたということですが、どなたに習っていらっしゃったんですか。
麦谷清一郎さん。錦城能楽会に笛方がいなかったから、麦谷さんが大聖寺に笛を吹きに来ていた。自分が笛を習いだしてから、麦谷さんは太鼓方になったけど。笛を始めたのが二十歳過ぎで、昭和39年から40年位。そのころから始めて、東京の舞台に初めてでたのは昭和45年かな。…金沢能楽会での初舞台は、昭和46年2月だね。

吉野先生

 

ーそれはどなたかから紹介があって舞台に出られることになったんですか。
紹介ではない。金沢能楽会が人材を育てないといけないと思って呼ばれた。基本的には佐野正治(金沢能楽会)さんの意向だろうね。麦谷さんが太鼓方になったら、笛方を誰か作らないといけない。それで自分にさせればいいと。自分は昭和45年から東京へ稽古に行ったと思う。そこで、習う先生も変わった

東京の先生のところへは、一日ではなくて、二泊三日位かけて。土日に行ったら、先生は会(公演)にいってしまう。玄人の稽古っていうのは、先生が会で吹いているのを後ろで聞いて、盗む。習うんじゃなくて、盗む。どこで息するか、どういう息の使い方をするか、どういう指使いをするかっていう、そういうことを、後ろに座って盗む。先生が舞台(公演)に出るときに、自分の仕事って言ったら、先生の世話焼きをする。先生のうちに行って、鞄もって、一緒に楽屋行って、先生が着替える手伝いをして。舞台が終わったら、今度は着物をたたんであげて。自分の着物もたたまないといけないけど。そういうことをして、また鞄もってうちまで送り届けると。そんなことを、大体10年位していた。それで日本能楽協会へ入ったのが昭和51年かな。

 

2 錦城能楽会のこと

―先生が入った当時(昭和40年代)の錦城能楽会の様子を教えていただけますか。
錦城能楽会は毎週金曜日の晩、大聖寺町役場※1の2階に集まって、夜の9時くらいまで稽古をしていた。謡の稽古に行くっていうのは、うち出るときの口実。稽古終わってから、大聖寺の料理屋、貸席かな。そこか、今出町の置屋で、一杯飲むと。昔はみんなよく飲みに行った。今の錦城能楽会は真面目な会になってしまった。

たとえ話で面白いかけ言葉があってね。「能するとの(無)うする」って、財産をなくするって言った。あと、「仕舞するとしまい(終い)や」って言った。だから大きいうちしか(能は)してない。

 

―料理屋で稽古することもあったんですか。
…行ったことあるな。笛持ってきてくれって言われて行ったことある。

 

―謡の先生のお家でする稽古と、町役場の2階での稽古は同じものだったんでしょうか。
いや、役場2階ではお囃子をやる人の稽古が主だった。お囃子は音が響くから好きな人はいいけど、嫌な人もいる。だから、町役場の2階に集まって。自分は笛をはじめた頃に「そこへ来て」って言われた。

それで江沼神社にある竹けい館※2なら、周りに何もないし、問題ない。それで何回か竹けい館で稽古や会(公演)をしたこともある。
竹けい館は、もとは大聖寺女学校にあった。自分たちのときは、第一教場と第二教場があった。第一教場が今の永町にある大聖寺高校で、男の中学校、大聖寺中学だった。そして今保育所になってる、耳聞山の大聖寺女学校だったところが第二教場で。女学校だから、お茶の稽古やら花の稽古やら、作法の稽古のようなこともやっていたみたい。

 

―謡とお囃子を皆さん兼ねてされていたのでしょうか。
それが大聖寺はお囃子が中心でね。でも、お囃子の人も謡をやっていた。どっちが好きかわからないくらい。結局、鼓する時にベースになるのは、謡だね。そうすると、謡えないと笛以外の楽器はできない。だから皆、謡をした。

 

―当時の錦城能楽会にはどんな方がいらっしゃったんですか。
会員の年齢層は5、60歳。自分が京都から帰ってから行ったときは、24、5歳ぐらい。一番若かった。
小鼓してたのは、写真屋さんとか学校の先生。シテをしてたのはお花屋さん、狂言方には豆腐屋さんとか判子屋さんいたな。錦城能楽会に入っていた人は、みんな職人さんやら、仕事についていた。職から離れると続けられない。

 

―今、錦城能楽会でも社中は分かれていますが、先生が稽古されていた時も同様だったのでしょうか。
そう。基本的に同じ先生じゃなきゃ謡がそろわない。結局はどの先生の系列か、ということになる。多くは金沢の先生の系列になるんだけど。昔は大聖寺、素人の玄人みたいな人がいた、半分玄人みたいな人。

でも金沢と大聖寺は流儀が違うものもあった。狂言は今でも金沢は和泉流っていう野村家。大聖寺は、当時は大蔵流で茂山家だった。習っていた狂言の人たちは武生まで習いに行っていた。※3

太鼓は、大聖寺は金春(こんぱる)流だった。京都の太鼓の先生が福井まで来てくれたから、太鼓方の人も福井まで習いに行って、金春流の太鼓をしていた。※4

 

※1  今の大聖寺地区会館

※2  竹けい館
…もとは明治33(1900)年に建てられた14代藩主前田利鬯(としか)の別邸。 建設当時は、江沼神社近くの大聖寺耳聞山町にあった。その後、明治45(1912)年に江沼郡立実科高等女学校に寄付され、礼法室として活用されたが、女学校は諸変遷を経て昭和23(1948)年に石川県立大聖寺高等学校に統合。建物は、昭和41(1966)年まで第2教場として使用された。同年石川県に引き渡され、それ以降、現在地の江沼神社敷地に移築されたと考えられるが定かではない。

※3  今の錦城能楽会の狂言方は和泉流

※4  今の錦城能楽会の太鼓方は、金春流と観世流

3 能楽の普及のために

(1)北陸での普及活動

―能楽協会で活動されたことを教えていただけますか。
平成21年頃に、公益社団法人能楽協会の理事をした。それで、能楽協会の能楽普及委員にもなった。北陸出身だから北陸担当。普及用の能のVHSを作って、それをもって北陸三県の学校を回った。福井は敦賀あたりまでだけど。

学校歩くようになったのは2002年かな。今から23年ほどたつ。最初に学校行ってやらせてくれたのは金明小学校。学校に入るために「加賀市能楽学校研究会」を作ったと思う。メンバーは、実践してもらわなきゃいけないから、錦城能楽会の会員。当時、学校で能楽っていうのを加賀市も、北陸でもどこもしていなかった。加賀市の中でも、能楽のことを少しでもしているたとしたら、錦城小学校くらいだったんじゃないかな。昭和20年代、自分が小学校の時に一回ぐらい、錦城小学校の講堂で、錦城能楽会がやっただろうものを見たことがある。謡ってこんなもんだっていうことを学校で。大聖寺のことだから、囃子もあったかもしれないけど、子供だったしわからない。
 

―学校の先生へのレクチャーもされたんですか。
市の教育委員会が声をかけて、学校の先生を集めてやった。先生が分からないのに、いきなり子供に言ってもだめだわって。先に先生に教えることになった。それで、錦城能楽会の会員に頼んで、学校の先生には楽器の説明とか。あとは羽衣の装束を借りてきて、舞囃子を見てもらった覚えはある。

 

吉野先生

(2)大聖寺の薪能

―平成15年まで20回、大聖寺で薪能を実施していますね。
10年近く、菅生石部神社でしていたが、神楽殿のところに橋掛りつけてもうまいことできないしということで、次に市民会館横の芝生のところでやった。でも、駅が近くて、貨物列車が通ると音が聞こえないという問題があった。

それで、図書館の裏の芝生の「古九谷の杜」に行ったけど、今度は楽屋がない。一回は全昌寺の御堂を借りたこともある。それで具合悪くて、山代の文化会館が出来たときにも一回だけしたけど。今度はホールが大きすぎる。半分に上仕切っても700人くらい入る。あまりにも空きすぎて、寂しくてよくない。結局、市民会館の3階のところでやった。客席にはパイプ椅子置いたけどぎゅうぎゅうずめ。お客さんもあふれるし、楽屋がない。あちこちやってみたけど、市民会会館の3階の広さは、ちょうどよかった。

 

―薪能の企画は、吉野先生がされたそうですね。
企画はそう。実行委員は錦城能楽会でその頃に頑張っていた人たち。小学校や幼稚園にも錦城能楽会の会員が学校に教えに行っていた。だから、国府中学校も出演しているね。

当時はあちこちで薪能のブームが起こった。
大聖寺の菅生石部神社は能舞台ってなくて、舞殿はある。巫女さんが赤い袴に白い着物を来て、鈴を持って踊る場所。あれは狂言の鈴之段の元でないかと思うけど、おめでたいもの。そういう舞殿っていうのはあるので、そこのところでしか能ができない。能舞台に欄干はないけど、舞殿に欄干がついている。だから、はじめは欄干の中で舞囃子みたいに能をしていたけど、お宮さんもそのうち欄干外しだして。そして橋がかりを外に作って、楽屋はテントを張って。そんなことをしてお宮さんで能をした。


―吉野先生のお話から、大聖寺での謡の風習や、錦城能楽会・金沢能楽会で活躍されたこと、能楽の普及啓発にご尽力されたことがわかりました。ありがとうございました。

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