【能楽インタビュー】 加賀市の能楽文化と歴史 聞き取り調査(2)
錦城能楽会 竹中浩三さんにお話を伺いました
プロフィール
竹中 浩三(たけなか・こうぞう)氏
昭和21年(1946)、旧山中町(現 加賀市)生まれ。大学卒業後に県外高校・市外養護学校で教員を務めた後、昭和52年(1977)に地元に戻り、山中中学校、片山津中学校で教員を務める。
昭和50年代より錦城能楽会に入って謡の稽古を始め、その後太鼓方としても会を支えながら、平成24年(2012)より会長として錦城能楽会の活動を牽引。平成10年(1998)に金明小学校校長として着任すると、加賀市に息づく能楽文化を後世に伝えるため、同年に錦城能楽会の会員による小学校での能楽ワークショップを開始し、加賀市での能楽普及を推進している。
能との出会いと、その魅力
ーまず能との出会いについてお教えいただければと思います。
私は昭和52年(1977)の4月から、山中中学校に勤務した。その頃はまだ山中中学校も、山中町の上(かみ)の方の旧校舎で、今のゆ~ゆ~館※1の場所にあった。それで、土曜日のお昼過ぎぐらいに、廊下を歩いていると、謡の声が聞こえてきたので「何やろうか」って。私はその頃は謡のことは全然知らなかったし。聞こえるところを探って行ったら、宿直室の畳がある部屋から聞こえてくる。それで、ひょこっと顔出したら、T先生が謡を教えていて、女の先生2人か3人で謡を謡っていた。女の人らはお茶をたしなむ人たちで、茶席で謡を謡うこともあるので教わっていたみたいで。私が顔を出したら、「おお、浩三、お前も入れ」って。入ってしばらくいたのが、運の尽きということで。
ーT先生にお声がけされて、始められたんですね。
T先生を初めとして、同級とか、1、2年先輩の学校の先生方が、グループを作っておられて、大聖寺で錦城能楽会の謡の達者な人に(謡を)習っていた。T先生は私たちよりも3年も4年も前から謡をしていた。そこへ連れていかれたけど、最初はちんぷんかんぷんで分からない。そんなふうにして始めたのが、きっかけかな。
―能に何か惹かれるものがあったんでしょうか。
その頃は結婚式で「高砂」(の小謡)を謡うのを聞いて、すごいと思ったこともあったから、自分も謡えるといいなと思ったのかもしれないね。
私はこういう、古典的なものに触れるということが今までなかった。社会科の先生ならいざ知らず、違うしね。だから幸運というか。そしてやっぱり、(「高砂」などの)小謡(こうたい)※2は、能のほんの一部分だからね。でも素謡(すうたい)※3となれば、物語の最初から最後までずっと謡うわけで。古い時代に作られたものが現在まで伝えられてきた、そういう謡とか能の素晴らしさっていうか、そういうことをやっていて感じる。
―学校で謡を聞いて興味を持って錦城能楽会に入られたと仰っていましたが、子供のころは謡を聞いたことはなかったですか。
ないね。
―竹中さんはずっと山中ですか?山中では、能というより山中節ですか。
そう。山中節はね、色々なところでありましたけど。先ほども言ったように、謡そのものは家の建前(たちまい)※4とか、結婚式とかね。建前だと、大工さんが小謡を一節謡うとか、結婚式で謡の達者な人が「高砂」を一節謡うとか。そういう場面で聞いたことはありますけどね。
―断片的に謡を聞く機会はあったけれども、素謡一本を聞くことはあまりなかった、ということでしょうか。
ないね。能も、聞いたことも見たこともないという感じだね。
※1 ゆ~ゆ~館…道の駅山中温泉ゆけむり健康村
※2 小謡(こうたい)…謡曲の中で、特に謡ごたえ、聞きごたえのある個所を抜き出した短い謡のこと。
※3 素謡(すうたい)…お囃子や舞を伴わず、謡本を最初から最後まで謡うこと。
※4 建前(たちまい)…建築儀礼の一つ。建築物の棟木(むなぎ)を上げる時に、新築の家に災難がないように、大工の棟梁などが神に祈念する儀式。上棟式とも言う。
昭和中期の山中に根付いていた謡文化
ー竹中さんの周りで、山中で謡をされている方は、当時そんなにいらっしゃらなかったのでしょうか。
私もあとで聞いて知ったんですが、私たちよりも5つから10以上年上の人たちは、山中でも謡をしている人はけっこう多かったそうです。旅館の女将さんとか、お医者さんとか。そういう方は金沢から職分(しょくぶん)※1の先生に来てもらって、教わっていた。その人たちがまた若い衆に教えて。
他の地域はどうか分からないんですけど、山中の人たちはみんな初老とか還暦のときに、小謡を何かしら謡う慣習があったらしい。皆預金講(よきんこう)単位で、謡を習ったと。
―グループごとで習っていたのですね。「預金講」というのは、お金積み立てて……。
字的にはそうですけど、昔は会費のようにお金を集めて、自分たちの仲間の中で、お金が大変困っているという人に、そのお金を貸してあげるという。そして、回復した時点でまたお金を返してもらうという、そんなようなものを「預金講」と言っていたみたいです。今もあるんですけど、遊び仲間、飲み仲間的な集まりだね。
―同じ世代で、しかも山中で謡をされている方はなかなかいなかったんでしょうか。
そうですね。私よりもやっぱり上の人ですよね。私の年代とか、私よりも若い人はまず、いないですね。
-それは何か理由があったんでしょうか。
分からないけれども、初老や還暦といったときに謡を出すことがなくなってきたからでしょうね。その必要性がない。最近山中では、初老のお祝いの行事を年間通して皆するんですけど。神社参りはもちろんのこと、お祭りのときに神輿を上げるとかね。最後の解散会というか、初老の年度の最後に旅館などで宴会をするんですが、先ほど言ったようなものの名残りか知らないですけど、そういうときにやっぱりお謡があるといいねということで、私や錦城能楽会の仲間が呼ばれて行って、そこで小謡を何曲か謡った覚えがあります。
―それは、いつ頃のことでしょうか。
去年はなかったけれど、5年も6年も続けて行っていました。
―最近の話ですね。何を謡われましたか。
「高砂」「鶴亀」「猩々(しょうじょう)」※2……。あとは小謡本持って行って、その中でおめでたい曲を何曲も謡いましたね。不思議なことに、山代や片山津ではそういうことをしていないようです。
※1 職分(しょくぶん)…玄人の楽師のこと。
※2「高砂」「鶴亀」「猩々」…演目の名前のこと。
昭和50年代の錦城能楽会の様相
ー竹中さんは何年のお生まれか教えていただけますか。
1946年かな。昭和21年。
―昭和52年に謡を始められたということは、31、32歳の頃でしょうか。
そんなものだろうね。
―能楽会に入られた当時は、どのぐらいの世代の方がいらっしゃいましたか。
私と同じ歳の人は一人もいない。2つ上に一人、4つ、5つ上がT先生。同世代と言えば、そんなところかな。あとは、50代から70代くらいだった。
―錦城能楽会に入られたときに、会員は何人位いらっしゃったか覚えておられますか。
200人はいらっしゃったと思うね。私もそんなしっかり数えてはいないけど、半分近くは大聖寺の人だったよね。やっぱりさすが大聖寺だなあ、というふうに思いましたよね。私たちみたいに、山中とか山代とか、片山津の人なんかもほとんどいなかったですし。
―当時の錦城能楽会に女性は多かったですか。
そんな少ないということはなかった。むしろ女性の方が多かったんじゃないかな。女性も年配の方が多かったね。
当時の錦城能楽会の練習風景
ー錦城能楽会に入られた当時、稽古はどのくらいの頻度で参加されていましたか。
謡の社中での集まりが月2回ぐらいかな。
(稽古は)先生が一節謡って、4人なり5人なりの生徒たちが一緒に謡を復唱して謡う。おかしければ「そこは違う」と直していただく。私も、今そういう形で教えている。
―錦城能楽会としての全体稽古もありますか。
春の大会、秋の大会、それからお松囃子が三大行事なんだけど。そういう行事の前は、大体5週間ぐらい前から週1で、大体5、6回は練習を行って。それを我々は「申し合わせ」と呼んでるんですが、それが錦城能楽会全体としての練習。
―全体稽古は、謡の社中やお囃子をされる方がみんな集まってされるのですか。
そう、本番さながらの練習だった。会場は大聖寺の地区会館が多かったね。合同で練習するのは、一つの部屋で、出番待ちは別の部屋で待機した。全体で練習するのは仕舞と舞囃子だから、大して時間はかからない。せいぜい5、6番。仕舞が2番で、舞囃子が3番っていう、大体そんな程度だった。素謡は社中ごとで出すものだから、素謡はしない。
―200人全員が春の会などに出るんですか。
そうだったよ。だから朝の9時頃に始めて、夕方17時頃までかかるとか、そんなものだった。
舞をする人はそんなに多くなかったけど、謡、地謡をする人が多かったですね。お囃子方も、一つの楽器で3人、4人はいたよね。(今みたいに)一人が2つも3つも(曲を)打つっていうことはなかった。
大聖寺薪能の思い出
自分が錦城能楽会に入った頃は、大聖寺でも市民会館の隣の公園に野外能楽堂を作って、そこで薪能をしていました。始まった詳しい日時は分からないですけど。昭和55、56年じゃないかな。
もちろん錦城能楽会だけで、お能はできませんから。金沢の能楽師さんたちの力をいただいて。錦城能楽会の大ベテラン級の、K先生らがシテをして、私たちは地謡の端っこに参加する、そんな形だったね。
―薪能での思い出はありますか。
そういう本物の能に参加するなんて、当然初めてだし、そんなにしょっちゅう金沢のお能なんか見に行くこともなかったから。初体験であって、どきどき、びっくりですよね。
―当時は能を一番演じることは、大聖寺ではないことなんでしょうか。
ないです。薪能でやったぐらいですよ。
―普段は春の大会とかお松囃子とかそういうものがメインで、薪能は特別というような感じだったんでしょうか。
そうだね。全然別のものだったね。
能を未来に伝える試み:小学校での能楽ワークショップ
―学校の先生をされていたときは、授業などで子どもたちが能に触れる機会はなかったですか。
平成10年4月から、私は金明小学校の校長を4年間していました。そのときに、吉野先生から「学校で子供たちにお能に少し触れさせたり、聞かせたりすることできないか」っていうお話がありましてね。「分かりました」って言って、学校の先生方に話をして、私たちが今毎年しているワークショップ的なことをまずしました。その後楽器に興味のある子を募集して、授業の時間をつぶすわけにはいかないから、放課後に30分とか1時間ぐらい。私は太鼓をしていましたから、謡を謡いながら太鼓を手ほどきしましたね。
それで、吉野先生も(他の)小学校でやれるんじゃないか、という確証を得たんでしょうね。金明小学校だけじゃなくて、加賀市内の全部の小学校にワークショップをして能楽を子どもたちに知ってもらうことができないかという話になっていって。校長会や教頭会で話をして、その結果教育委員会も、それは良いことです、と。経費は学校は一切負担する必要がないということで。当然、我々もそんなのを当てにしていたわけでもないしね。加賀市の子どもたちが能に触れて、理解してくれるのであれば言うことないから、ということで。それからかれこれ20年、30年近く続けているのかな。
―平成10年から考えると、30年近いですね。ワークショップの講師は、錦城能楽会で活躍されている方々ですか。
そうそう。何回かは、吉野先生がいらっしゃった。お囃子で4人でしょ。シテが一人がいて、あと地謡が3人か4人だね。全部で9人か10人。
―かなりの方々がご協力されていた。その方たちはどのような生業だったのでしょうか。
職業はバラバラですね。学校が希望してる日時に来られないっていう人はまずいなかったから。
―すごいですね、平日で。ということは、会社勤めより自営業が多かったのでしょうか。
そうでしょうね。
―当時はどんな雰囲気で練習していたのでしょうか。
ワークショップで子供たちにお見せする舞囃子は「羽衣」に決まっていましたからね。鳴物(なりもの)※にしても地謡の人たちにしても、目をつぶっていてもできるぐらいしっかりできていました。でも、子どもたちの前で失敗してはいけないわけですから、シーズンが始まる前にやっぱり2、3回は練習してね。それは今も一緒ですけど。
※鳴物…お囃子のこと
太鼓方として会を支える:担い手不足の中で
―太鼓はいつから始められましたか。何かきっかけがあったのでしょうか。
始めた時期をはっきり覚えていない。きっかけは、当時太鼓を打つ人がお年寄りで、練習も大変できつそうだった。そうしたら吉野先生が「これはいかん」と。「何としても太鼓を打てる人を育てねば」ということで、まずT先生に話しかけようと思ったそうです。T先生と吉野先生は同級生だから、言いやすい。T先生は謡も達者だし。でも、T先生は「わし一人でなんて嫌や」って言うに決まってるから、そうしたら彼と仲良しな竹中の二人に声をかけてみよう、って思われたそうで。それで、結局二人で太鼓をすることになった。それで、始めて20年は経つかな。はっきり覚えはないんだけど。
―2000年頃には錦城能楽会の会員も少なくなって、太鼓を打つ人も少なくなっていった。ということは、60代頃から太鼓を始めたんですか。
そうだね。それまで太鼓を打っていた人もお年寄りで、もうできないわ、というようなことで、おやめになってしまわれたしね。私とT先生が交代で打っていた。
―お囃子は、金沢能楽会の先生に習っているんですか。
そうそう。麦谷清一郎という、職分の先生です。息子さんも今やっていらっしゃる。麦谷暁夫先生(観世流太鼓方)ね。
印象深い「翁」の舞台
―様々な公演に出演されてきたと思いますが、印象に残っている公演はありますか。
(持参された「翁」の舞台の写真を指さしながら)これかな。これは能楽堂で謡った「翁」※だね。2024年の藪俊彦先生(金沢能楽会シテ方)の社中だから、「篁宝会(こうほうかい)」かな。「翁」のシテを謡えって言われてね。
―「翁」をされるにあたって、どのようなことをされましたか。
猛特訓だった。普通の謡とは全然違うよね。拍子とか節がついていないところでも、やっぱり独特の謡だしね。言葉も一般の謡に出てくるような言葉じゃない。とうとうたらり、とうたらり、とかね。
―苦労されたところはありますか。
どのような謡でも一緒だけども、やっぱりシテとワキとの区別って言うかな。シテはシテらしい謡い方をする。かなり厳しく、注意されたね。
※翁…能で別格に扱われる祝言曲で、翁・千歳(せんざい)・三番叟(さんばそう)の三人による祝言・祝舞が行われる。謡や囃子、装束など様々な点で、他の能・狂言の演目とは異なる古風な様式をもつ。現在では、正月初会や祝賀能などの番組の冒頭に演じられる。(参考:西野春雄・羽田昶編『新訂増補 能・狂言事典』新訂増補版、平凡社、1999年)
加賀市の財産・能楽を守るために、今願うこと
―竹中さんの考える能の魅力について一言いただけますでしょうか。
謡にしても太鼓にしても、地謡の方とシテの謡、そしてお囃子が曲の感じにぴたっと合致というか、適応した形で発表できたときは、やっぱり良かったなあと思いますね。
―お囃子はチームワークが必要で、一人でできるものではないですし。力を合わせて一番演目をするのは、大変なことだと思います。
シテさんはシテさんの、自分なりの思いで謡をする。鳴物の人たちも、自分たちの思いで打とうとするよね。それがやっぱりずれることがあるわけね。それを事前の4回か5回の練習のときに、お互いに「ここのところをこうしたらどうやろう」とか、「ああしたらどうやろう」って話し合いをして、お互いに譲れるところは譲って、その結果、良いものができ上がればね。
―そういうふうに練習とか稽古を積み重ねて、本番に向けてみんなで頑張れるというところ、それが魅力の一つでしょうか。
やっぱりね、ぴたっといかないと、やっていても気分が悪いわね。そういうときは囃子方とか、シテさんだけじゃなくて、地謡で謡っている人が「ああ、今日は良かったね」って分かる。そういうときにお互いにやってて良かったなって。
―最後に一言あれば、お願いします。
市の無形文化財に指定されているお松囃子をなくすわけにもいかないし、そのためには錦城能楽会をつぶすわけにはいかない。やっぱり(お松囃子は)加賀市の大事な財産だと思っているし、そのためには何としてでも(会員の)人数を確保しないといけない。一時期200人以上もいた、そんなのじゃなくても、せめて100人近くぐらいはいてほしい。会員が多ければ、その人たちの中で「小鼓やってみようか」「大鼓やってみようか」とか「笛をやろうかな」っていう人も出てくるだろうし。
―竹中さんが謡を始めたときから現在まで、真摯に稽古に取り組まれていることが伝わってきました。お話いただき、ありがとうございました。
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更新日:2026年03月12日