【能楽インタビュー】 加賀市の能楽文化と歴史 聞き取り調査(3)

更新日:2026年05月27日

錦城能楽会 中瀬 みさをさんにお話を伺いました

プロフィール

中瀬 みさを(なかせ・みさを)氏

1948年(昭和23年)滋賀県彦根市生まれ、加賀市在住。20代に結婚を機に大聖寺に移り住み、能の稽古を始める。錦城能楽会の会員となり、のちに藪俊彦氏(金沢能楽会・シテ方宝生流)に師事。シテ方として「高砂」「鶴亀」「猩々乱」をはじめとする数々の舞台を踏みながら、加賀市内の幼稚園や小学校で能楽を教え、普及啓発活動に取り組んできた。

能との出会いと当時の錦城能楽会

―中瀬さんご自身のことをお聞きできればと思います。何年生まれでいらっしゃいますか。
1948年。今年で78歳。

 

―中瀬さんは大聖寺出身ではないと伺いました。お嫁でこちらに来られたんですか?
1970年代に彦根から嫁いで、大聖寺に来ました。最初の市議会議員の選挙があった年に、父親が大聖寺の病院に入院していて、その看病に来ていたんです。周囲から見ると言葉の違う、何も知らん者がいるわって感じでした。でも中瀬(主人)の母も京都生まれの人だったので、遊びにおいでって言われて。そんなので、1年もたたないうちに中瀬家に嫁いできた。

当時って女の人が外へ出てお勤めしないとか、そんなのだったでしょう? 当時大聖寺の婦人会が能のクラブを作ったので、そこに行くことになったんだけど、そんなのだから何となくやめられなくて。伝統芸能とか全然、なんにも知らなかった。うちの実家の彦根のほうだったら、(能の主要な流派は)観世流で、こっちは宝生流だし。
それで入ったけど、「いややな、いややな」と思いながら行っていて、あんまり好きでもなかった。それでも続けてると、稽古や舞台に向けてそのうちに覚えないといけないことがあって。それを覚えて終わったら、また次の大会が目の前にあって、それでやめられなくてまた一生懸命覚えてる。人の前で恥をかけないっていうのがあるでしょう。子供のときならそんなものだろうけど、大人になって「あそこの嫁さん下手くそでね」なんて言われると……。

 

―能を習い始めたのは、大体いつ頃だったんでしょうか。
22歳で嫁いできてすぐぐらいに始めたけど、赤ちゃんを産んだりしているので、何やかんや除けたとしても、まだ20代では習ってたわ。当時は錦城能楽会のM先生という方に習ってて、そのうち、金沢のプロの先生について今に至って。それでも三年くらいはM先生のところで習ってた。

 

―M先生のところでのお稽古はどのぐらいの頻度でされてたんですか。
あの時は月2回くらいかな。そんな毎週行ったような気がしないけどね。プロは月2回だったわ。いまだにその頻度で習ってるけど。

大会前になると、(錦城能楽会の)みんなが集まって合同でする申合せがある。そこでだんだん仲間に入れてもらって。ちょこっとずつ。それで上手になったんだろうね。「あなたちょっと出たら」って感じで、最初はお仕舞※1で出た。舞囃子は、今だったら全部スマホでぱっと撮れるでしょう。でもその頃はないし、もう中之舞※2なんか覚えるの大変だったわ。

 

 

 

―中瀬さんが入られた頃、錦城能楽会はどんなメンバー構成だったんですか。
女性は結構いらしたね。厳しい方がいらして、周りの大人にはよく怒られた。人のお稽古をちゃんと見てなかったりとか、じっとしているのが嫌いで、立ったりすると「じっとしとれ」って怒られて。昔の人はそうだったわ。皆さん本当に、一生懸命経験を積んできた人たちでしょう。厳しかったよ。チャチャチャと走ったら、「走るなー!」って言われて。昔の年上の人って威厳があったでしょう。それこそお行儀のことでやかましくって。結構頭に来たけど、負けず嫌いだったんかね。人数は、うちが入った頃は分からないけど、どれだけか前の新聞記事を見たら、20社中で200人って書いてた。今は40人ぐらい。

 

―中瀬さんと同年代の方は入った当初いらっしゃいましたか。
橋立のほうから2、3人、同年代の方がいらしたのかな。うちよりちょっと先になるとおばさんたちもいらしたけど、みんなやめましたね。年齢層は高かったですね。能は年寄りが習うものだったんだって。うちは嫁いできたから続けられたけど、(他の家庭では)お嫁に行ったら大体おしまいだね。ほら、忙しくなるとか、お年寄りの面倒見ないといけないとか。嫁さんって皆そうでしょう。今はどうかわからないけど、昔はみんな嫁さんがするもの、みたいな。

 

―嫁ぎ先の中瀬家では、謡や舞をされていた方はいらっしゃったんですか。
お舅さんも姑さんも、主人の兄弟さんも謡をしていた。おばあちゃん(姑)はうちの能は見に来てくれたのかな。おばあちゃんは金沢の能公演にも連れてったりもした。おじいちゃん(舅)も舞台に出ていたぐらいだから。そういうおうちだったから、続けられたのかもしれないね。そうでないと、能との関わりが全くゼロのおうちやったら、何をしているんだっていう感じでしょ。

うちの場合は、恵まれてたって言えばそうだし。日中(家を)放っておいて学校のワークショップに行くんだからねえ。それで大体午後は終わってしまうんだわ。それを何年もして。申合わせは、大聖寺では丁寧に7回ぐらいあった。大会より前週7回前から始まる。それが夜の7時か7時半から始まると、終わるのが9時か9時半になってしまう。家の人はよく我慢したと、本当つくづく思うわ。主人は黙って応援してくれるから、それはもう主人に感謝、と思ってます。

 

―中瀬家のお舅さんとお姑さんは、錦城能楽会でずっと能を続けられていたんですか?
ううん、中瀬のおばあちゃんはうちと入れかわりにやめたし、おじいちゃんもうちが来たときにやってませんでした。昭和27年とか28年。この辺で最後だったんじゃないか。謡だけで、舞とかはしてなかったんじゃないかなあ。それでも袴能(はかまのう)※3をしたとかは言っていた。でも自分がシテ※4をしたとか、そんなのは聞いてない。謡をしたかもしれないね、この分だとね。

 

―昔は、お商売をされている方がけっこう能をされていたとお聞きしました。
そうそう。だから、米屋さんが大鼓してたり。金沢だったら庭木の職人さんが、枝を切りながら謡っていると、下を通った人とかけ合いができたって言うから。おじいちゃんは、今で言う骨董屋さん、お道具屋さんかな。それで、そんなのを習ったんじゃないかな。昔って、集まって一節謡って、今の時期なら「西王母」か。「花もえるや盃の」、そんなのを謡ったと違いますかね。桜だったら、「春霞」とかね。そんなのをしたんじゃないかなと思います。

 

―昔はお祝い事のときや家を建てるときに小謡(こうたい)※5をされてたそうですが、中瀬さんが当時大聖寺来られたときには、そういう風習はまだありましたか?
あったあった。バブルがはじけるまでは、どこそこの何周年、こっちの何周年でこけら落とし、そんなのよく出してます。

 

 

※1  仕舞(しまい) …能面や能装束をつけずに、紋付・袴で能の見どころ部分を、4人前後の地謡によって舞う。

※2  中之舞(ちゅうのまい)… 能の舞事(一曲の能の後半部分に演じられる舞)のひとつ。曲によっても異なるが、中くらいの速度で様々な役柄によって舞われる。

※3  袴能(はかまのう)… 能面や能装束をつけず、直面(ひためん・面をつけない素顔のこと)、紋付き袴で能を演じる上演方法。

※4  シテ …能の主役。

※5  小謡(こうたい)…謡曲の中で、特に謡いごたえ、聞きごたえのある個所を抜き出した短い謡のこと。

能を未来につなげる普及啓発活動

―錦城能楽会のM先生からの紹介で、その先生である藪先生(金沢能楽会)に習い始めてたんですね。
そうそう。藪先生に紹介してくださって。素人の先生って教えられる範囲が限られてるからね。しばらくして、藪先生のもとで教授嘱託免状取って、それから人に教え出した。やっぱり嘱託免状を持ってなかったら、教えたらいけないからね。子供塾と、幼稚園にも教えに行ったわ。うちは山代幼稚園に行ったのかな。橋立のTさんが、橋立から京逵(けいき)幼稚園に行って、うちはここから山代行くっていう感じで。
そのときに、教え方をいろいろ考えました。足の動かし方を「右左右」と言っても幼稚園の子は分からないから、足の先にシールを貼って。それで、見本で足の形の裏に、薄っぺらいマグネットを切って、はっつけて。そうやって動かしてやると分かるでしょ。そっちの足を赤に塗っておいたら、自分の足にも赤の印ついてあるし。「赤白赤」って言うと子供は分かるけど、「左右左」言っても、分かりにくい。特にちっちゃい子は。そうやって最初はしました。とにかく喜んでもらわないといけないから。人に教えるのは良いことだとか言うけど、大変だった。

 

―いろいろと工夫して子供たちに教えておられたんですね。
そうそう。あれは自分にとっての大きな財産かもしれないね。あんなことはもう二度とできないから。今はそういう幼稚園ではどこも能を教えないものね。そういうことを体験できたのは、こっちの財産かもしれないわ。
あとは狂言師の野村万之丞さんが来たときに、万之丞さんが見てらっしゃる前で、子供たちが日頃のお稽古事を発表して見せた。情操教育のために、「礼で始まって礼で終わる」とかいうのも踏まえてやった。
福井の国民文化祭※1でも子供たちが、能をした。これも、よその方が協力してくれて、赤い着物を下さったので、それをうちが着せて。それでうちらが後見してたら、全然関係のない人が「よくやったね」って感心してくださったわ。後見ついてるのが、うちら素人ばっかりでしょう。見る人が見たら分かるわけ。それで、褒められた。良かったねって言いながら。

 

―学校でのワークショップもされてたんですよね。
平成10年くらいから(金明小学校の)ワークショップが始まったでしょう。それも20年ぐらいやってたんじゃないかな。子ども塾は15年以上続いた。その子たちが中学校行ったらほとんどが辞める。高校行ったらゼロ。子供って早く覚えるから、やっと人前出られるわって思っても、やめてしまう。残念だね。あの子たちが育ってくれたら、今30幾つぐらいになってるから、本当にいいんだけどね。

 

―でもそういうふうに種を蒔いていくのは、意義あることですね。
そうそう。だからワークショップ、やらなくてもいいのかなと思うけど、やっぱり種を蒔いてるから、年をとって思い出すこともある。あるとき、赤ちゃん抱っこしてらっしゃるお母さんに出会って。それでうちのことを、「あら先生」って言ってくれた。彼女が幼稚園ぐらいのときにやってたのを、覚えてるって言ってくれて。「えー!」って。赤ちゃんがいるんだと思って、それはそれでうれしかったんですけどね。

 

―そういうふうに種を蒔き続ければ、思い出してやってみようかなっていう人も出てくるかもしれないですね。
そうそう。種まいて悪いことはないんですよね、本当に。

それで、うちらはシテ方でしょう。他の楽器の皆さんは紋付き袴でいいけど、こっちはね。さっさと能面と装束に着替えないといけない。それでトークして。うちのトークは漫才みたいなものだわ。能面の話をするときは、まだ能面があるから、話はしやすい。架空のものじゃないから。「これ小面(こおもて)※2やから、70過ぎのおばばでも、15,6歳に変身できるんだよ」って言うと、ものすごく納得してくれる。子供たちに、もういつこんなの見られるか分からないからおいでって見せてあげると、ワーッと集まってきて。能面の目の穴がちっちゃいから、それがすごく新鮮みたい。そんなので、喜んでもらってね。感想文を読むと、子供たちは飾ることを知らないから、素直に感想が出てくるので、結構上手に書いてある。自分の一番の財産は、子供に教えたことだね。子供たちに接することができたっていうのはすごく、ね。誰でもできんことだもんね。

 

こういう普及啓発活動への参加のきっかけは、何かあったんでしょうか。
うちの場合は、錦城能楽会のお仲間から言われたから。中瀬も出てって感じで。シテ方こっちだけだし。それで引っ張られてした。当時は吉野先生が一生懸命だったね。吉野先生の場合は日本中のことを知ってらしたから。
うちは何事も経験だと思ってるから、声かけてもらえないよりは、声をかけてもらえたほうがいいわと思って。それで、1回でも稽古できるでしょう。うちは稽古さえできれば幸せなほうで。だから、(能が)好きなんかもね。とにかくお稽古に一生懸命だわ、今でも。せっかく主人のおかげでさせてもらってるんなら、一生懸命しないといけないわと思って。それで本当にお稽古一生懸命したわお稽古の量だけは。上手下手は別として、お稽古だけは人も負けないと思ってしたんだわ。

それに大聖寺は素人ばっかりだから、何でも聞けるし。(お囃子の)掛け声も大聖寺だったら、「あーあのおっちゃんの声」って耳に慣れて。ほら、申合せ5回も6回もするから、それで慣れるわけ。みんながゼロから一つのもの仕上げていく。そんなことは良かったかなと思いますね。お互いテープを貸してたら、本見せてとか言えるでしょ。それこそワンチーム。みんなが、本当にまとまってしなかったら。カラオケじゃないし、みんながそろわないといけないから、1人だけでできるものじゃない。最低10人ぐらい、メンバーはいるでしょう。その10人がなかなかね、集まらんねえ。どうしたらいいんだろうと思うけど。見に来てくれた方が感化されればいいと思うけど、そこまで感動してくれるような芸できる人があるのかなと思うし。やっぱり自分ももっと頑張っていかないといけないのかなと思うし。でも1人だけで頑張っててもいけないし。ねえ、難しいところですね。

中瀬さん

 

※1 福井の国民文化祭… 2005年(平成17年)11月3日に福井県敦賀市のプラザ萬象 において、「第20回国民文化祭・ふくい2005」の関連行事として「能楽の祭典」が開催された。全国の能楽愛好者による発表や、能楽師による公演が行われ、加賀市からは錦城小学校・錦城東小学校・錦城中学校の児童・生徒15名が出演し、能「羽衣」を披露した。

※2 小面(こおもて)… 若い女性をあらわした代表的な能面の一つ。能「井筒」や「熊野(ゆや)」をはじめ、若い女性が登場する演目で使用される。

お松囃子

―お松囃子※1のために、事前に稽古をされているんですか?
やっぱり申合せがあるんですよ。今は5,6回もないけど。年末は外して、クリスマス前に終わるわね。うちの場合は、お松囃子が終わったらやっとお正月来たかなと思う。

 

―初めてお松囃子に出たときどうだったか、覚えていらっしゃいますか。
何か本当に緊張しただけ。お稽古はいっぱいするけども、やっぱり年末年始って心ここにあらずって感じでしょう。子供も放っておいて、本当に心ここにあらずだったわ。それでも、何回も何回も稽古するわけ。女性は、「猩々」と「東北」を1年置きに交代でした。中瀬、そして橋立のTさんと交代で。

 

―「東北」と「猩々」は女性が舞うものだったんですか。
そうそう、してたんです。「高砂」は男性がして。でもたまには女性も「高砂」をすればいいんじゃないかっていうことがあって、うちは1回か2回してるわ。舞囃子だけどね。

 

―男性は「東北」、「猩々」を舞うことは昔もあまりなかったんですか?
と思いますけど。うちが始めてからはそうだったよ。うちはやっぱり、個人的には「東北」が好き。序之舞(じょのまい)※2のゆっくりしたの。あまり早いのは、何をしていいか分からなくなって、パニックを起こしてしまう。ゆっくりした曲で考えながら舞っている方が、自分には合っている。特に序之舞は好き。

 

―お松囃子当日は、どんな様子ですか。
今年は地区会館でしたから、準備は大して要らなかったけど。昔はお松囃子が終わると、今出町の方に遊びに行って、芸者さんやら呼んだと先輩に聞いた。それが嬉しいからってお松囃子に出たんですと。いろんな楽しみ方あったんだわ。女性会員が増えてきたから、今出町に行かないようになったのかもしれないよ。その辺のことはわからないけど。

 

中瀬さんが入った頃にはそんなことはありましたか?
なかったと思います。そんな、男性がお松囃子の後で何をしてるか、こっちも分からないけど。ほら、うちらまだペーペーだったから。

 

※1 お松囃子(おまつばやし)… もともとは江戸時代に全国の大名家で正月2日もしくは3日に行われた「謡初め」の儀式。明治以降、謡初めの風習が途絶えてしまった地域が多数ある中で、今日でも継承されている例は全国的にも少なく貴重である。加賀市指定無形文化財。加賀市では、「高砂」「東北」「猩々」の三曲の舞囃子を行う。

※2 序之舞(じょのまい)…能の舞事のひとつ。冒頭に拍子に合わない「序」と呼ばれる部分があるのが特徴。女性や精霊、老人などによって舞われる、静かで優美な舞である。

これまでに出演された舞台について

―何回か能に出られていると思いますが、最初に出られたのはいつでしたか?
…覚えてない。何せ合計8回したわ。「高砂」の後シテ2回、「鶴亀」の鶴2回。そして、「野宮」、「松風」、「船弁慶」、「猩々」の乱(みだれ)※1のシテ。それで、平成10年にカナダ行って「羽衣」の盤渉(ばんしき)※2をしたのと。帰ってきて一週間後に、「船弁慶」をした。若かったんだねえ。船弁慶は加賀市で、大聖寺の薪能ありましたでしょう。(自分が出演したときは)大雨が降るとかで、体育館かどこかで「船弁慶」をした。「乱」は大鼓会で、「松風」は笛の会でしたんだわ。

 

―最初に能に出た曲は覚えていますか?
「鶴亀」の鶴※3。40歳そこそこだった。大聖寺でF先生という方がいらして、「鶴亀」をすることになったんだけど、その方がシテするなら、鶴と亀を演じる人がいる。それで若い演者がいるって言うので、うちと一つ下のTさんという方で出たわ。

 

―それは、金沢の能舞台で?
そうです。こっちで大分稽古させてもらって。二人で舞うからこっち六歩、こっち三歩とか、きちっと決めてしましたよ。それも、普通の中之舞じゃなくて、ちょっと変わったのをして。この間演じた鶴は、去年、おととしぐらいだったかな。それが最後です。藪先生と共演して、新聞にも載った。

 

―平成10年にカナダのダンダスで、「羽衣」盤式をされたとのことですが、どのような経緯で行かれたんですか。
ダンダスと加賀市での交換があって、こっちから行く年と、向こうから来る年とあった※4。そのときに、こっちから行ったんだわ。それで、先生と脇方※5で北島さんがついてくれました。狂言方は覚えていない。お囃子方は錦城能楽会。みんな一生懸命稽古して行ってるから。だから経験だけはあるよ。

 

―上演して、カナダではどんな反響がありましたか?
カナダでは、見てくれた方が「天女が羽衣を返してもらえなくて寂しかったっていうのをすごく上手に演じてた」って個人的に言ってくださったわ。それで、向こうの人は主人公のことをシテって言わないで、「エンジェル」って言ってたわ。向こうの人がどういう風にとってくれたか分からないけど、そんなことを言ってくれた。
舞台は組んでなくて、普通のでっかーいホールに、柱を置くだけだった。本当にね、それで舞台になる。

 

―自分がシテをしたお舞台で、すごく良かったなと印象に残っているお舞台はありますか。
よく覚えて、自分にご褒美あげたいのはやっぱし「猩々乱(しょうじょうみだれ)」かね。9月かなんかで暑かった。汗疹(あせも)もできるし、首にタオルをまいて。足の動きもぴょこぴょこしないといけないし。本当に、自分でよく頑張ったな。ああいうふうに自分が一生懸命になれて、やってよかったなと思った。多分、60歳ぐらいの時だわ。
お能はね、ものすごく負担だから。(謡本を)1冊全部覚えるでしょう。大変なんだよ。でも自分が物語の中に入っていける時がある。それはやっててもちょっと楽しい。何にも分からないで、ただただ言われたとおりにやってると、どっかで滑るし。一生懸命取り組んでると、それがやってて面白いかなと思う。

 

 野宮 前シテ

この写真は「野宮(ののみや)」※6だわ。「野宮」も訳が分からなくて、(物語の元になっている)『源氏物語』を読んだ。今まで『源氏物語』なんて、読まなかった。それで、いまだに全然分からんけど、『平家物語』も読んで。これは、ちょっと自分の前が広がったっていう感じだね。

やっぱり「野宮」の中の御息所を演じるのなら、御息所の激しい気持ち。御息所は光源氏のことが好きで仕方なくて、その愛情の裏返しなのかなと思う。「鉄輪(かなわ)」でも、最初の増(ぞう)の能面から般若になる。般若は、一瞬「あっ怖い」と思うけど、あそこには女の深い悲しみとかあるらしいし。まだうちは般若の面をつけてないから分からないけど、深い悲しみを表現したいっていうのは、「野宮」で思った。やっぱり演じるときには、そういうことを一生懸命思おうとするんだわ。それでそんなのを意識して、「野宮」をしたと思うけど、素人が初めてのお能で、あれだけのことをするのはすごいって言われた。

藪先生もうちの後に「野宮」されたけど、藪先生は御息所が、恨みや悲しみを浄化した「野宮」をしたんだとおっしゃっていた。でも、うちは「女は浄化できません」って言った。「死ぬまで恨みます」って。でもそんなこと言えるのは、本を読んだりしたから。そんなところが、面白いかなと思う。それは女としてそう思うのであって、当時の雅な男性のことは、今は分からないけどね。

野宮 後シテ

『平家物語』の壇ノ浦とかって、読んでもまだ分からんし。でも何年も経ってやってみると、やっぱりつらかったんだろうなと思って。そんなものも見えてくるようになるから。それで、いつだったかな。宝生流の家元が「清経」をした時に、すっごい引き込まれていった。うちも80近くなってからこんなことを思っててもいけないけど、やっぱり演じるからには、そういうところもかいま見せられたら。それを目指さないといけないなと思って。

それで、見てる人は分からないけど、間違うと自分がちょっと悲しい。だから続けて来られたんだと思うよ。若いときなんか(間違えても)分からないでしょ。ほーんとに段々、段々難しくなって、段々怖いことは増えてくる。「お稽古事は死ぬまで」っていうのは、こういうことかなって思うようになった。お能をやった後でもう1回習うと、「あら、このときこんな感情だったのか」と思って、後で気付く。だからお能をした場合は、やり残したことがいっぱいある。

でも、それだけ能に出てたらね。主人は何も言わない人だけど、それでも申し訳ないと思う。だから一生懸命しないといけない、ということもある。だって、それしかお返しができない。たらたらしていたら、それこそ昔の人が言うように罰が当たるなって。

今は八間道の舞台を借りられるから、助かってるわ。家だったらカーペットをめくらないといけないから。けがしたときも松葉杖をついて、あそこまでお稽古に行ったわ。あそこだと(床に)でこぼこがないから、すーっと歩けるんだわ。不思議だね。心のリハビリのことは分からないけど、体のリハビリするのは、あそこに行けば良いと思う。

 

―趣味があると、やっぱり人は生き生きしますからね。
本当に生かされてるのかもね。こういうなお話できるのでも、やっぱり趣味あってのことだし。

 

 

※1「猩々乱(しょうじょうみだれ)」… 能「猩々」の小書(特殊演出)で、披キ物(特別に伝授を受けなければ上演が許されない曲)のひとつ。通常「猩々」で舞われる中之舞に比べ、「乱」の囃子は緩急が大きく変化し、独特な旋律や足遣いが使用される。

※2「羽衣」盤渉(ばんしき)… 能「羽衣」の小書のひとつ。序之舞の中の笛の調子が通常の黄鐘(おうしき)調から盤渉調に変わって調子が高くなり、より華やかな雰囲気となる。

※3「鶴亀」… 中国玄宗皇帝の時代に、新年の行事が執り行われる様子を描いた祝賀性の高い演目。天下泰平を祈念して鶴と亀が舞を行い、皇帝(シテ)自らも祝賀の舞を舞う場面が見どころとなる。鶴と亀はツレ。

※4 ダンダス・加賀市… カナダのダンダス町(現ハミルトン市)と加賀市は1968年(昭和43年)に姉妹都市提携を結び、中高生を相互に派遣するなどして交流を深めてきた(2000年(平成12年)に旧ダンダス町がハミルトン市に合併され、姉妹都市提携は解消されたが、その後も両市の民間団体による交流が続いている)。

※5 脇方… 能の役種のひとつ。多くの場合、シテの相手役として、シテの演技を引き出す役割を持っている。僧や武士など、現実の生きている人間の役柄で、能面をかけずに直面(ひためん)で演じる。

※6「野宮(ののみや)」… 『源氏物語』の物語をもとに、主人公・六条御息所の源氏への恋の妄執や切なさを描いた作品。晩秋に嵯峨野の野の宮旧跡を訪れた旅僧が、里女(六条御息所の化身)と出会うことにより、源氏の正妻からの屈辱や、源氏への妄執が語られる。

シテ方以外の取り組み

―中瀬さんはお囃子の楽器は習われましたか?
太鼓は、幼稚園の子とちょっとしました。幼稚園の子に教えるのに、何回でも何回でもするでしょ。一緒にしていると、こっちが覚えてしまった。それで、笛もちょっとやったよ。おまけに狂言もちょっとした。狂言は、他の方が習うときのお付き合いで。でも(能村)英丘先生※1と共演したこともある。英丘先生の相手役。それも大聖寺でだけどね。

狂言 写真

自分が狂言をして笑わせようとなると、本っ当に大変だと思ったわ。覚えないといけないのにそればっかり気になって。笑ったら、(所作が)すこーっと抜けてしまいそうな気がして。そんな状況なのに笑えって言ったって、笑えないでしょ。楽しそうにしなさいって言われるけど。「わっはっはっ」て笑わないといけない。それが、「わっ」で声が終わってまう。狂言を習いに行ったときに、英丘先生は「人をかき分けて出て、それからまだもう一歩出て、大きい声出しなさい」って言ったわ。そんな経験が今役に立ってるね。

 

―そういうふうに楽器も体験されて、狂言もされていたんですね。
そうそう。でも自分はやっぱし最後はシテ方かなと。今何をするかって言ったら、シテ方をやっているから、それを一生懸命突き進めていけばいいかなと思って。生きてる間はずっとやって。これからも、死ぬまで謡はできる。動けなくなっても。でも、太鼓をしたことによって太鼓の間(ま)がわかる。笛も習ったおかげで、唱歌(しょうが)※2もわかるし。そんなので、今となれば本当に無駄なものは一つもなかったと思ってる。

 

 

ー中瀬さんの稽古に対する熱心な姿勢や、何事も楽しんでポジティブに取り組まれている様子が印象的でした。お話いただき、ありがとうございます。

 

 

 

 ※1 能村 英丘師…現在は能村 祐丞師(和泉流狂言方)。

 

 ※2 唱歌(しょうが)… 楽器の旋律やリズムを文字に置き換えたもの。この唱歌を歌うことで、曲の旋律やリズムの習得につながる。

 

この記事に関するお問い合わせ先

文化課文化推進グループ

電話番号:0761-72-7988 ファクス番号:0761-73-4824


メールフォームによるお問い合わせ

このページを見ている人は
こちらのページも見ています