8.武家の能楽
足利将軍時代・豊臣秀吉時代の能楽
観阿弥 ・世阿弥父子が能楽を大成したのは南北朝期から室町初期に当たります。当時の武家を代表するのは足利将軍家です。世阿弥が12歳の年(永和1(1375)年または応安7(1374)年)、観阿弥は京都の今熊野で猿楽(能楽の古い呼び方)を催し、これを3代将軍義満が将軍として初めて見物します。以来、観阿弥は芸能界の第一人者と見なされます。4代将軍義持は田楽の増阿弥を、6代将軍義教は世阿弥の甥音阿弥をひいきにしました。
歴代の足利将軍は猿楽を鑑賞して楽しみました。将軍が天皇を、大名が将軍を、自邸に招いて饗応する際、スター役者を招集してもてなすことも流行しました。やがて戦国時代には大名自身が謡や能芸をたしなみ、客人や家臣らに披露するようになります。その代表が豊臣秀吉です。秀吉は徳川家康や前田利家ら諸大名を引き連れて京都御所に参内し、自分たちの素人芸を天皇の御覧に入れたことがよく知られています。
江戸時代の能楽とその継承
江戸幕府を開いた家康は京都の二条城で3日間にわたり将軍宣下祝賀能を挙行します。将軍宣下とは朝廷が将軍就任を認める意であり、将軍自身が四座(観世・宝生・金春・金剛)の役者を揃えて儀式を華麗に盛り上げました。地方の諸藩でも幕府にならい、藩主が幕府から就任を認められ初めて藩に入る時、盛大に猿楽を催して祝賀の気分を藩内に周知しました。こうした儀式のために幕府も諸藩も役者を抱えたことから、江戸時代の猿楽は「式楽」的性格が色濃いといわれます。
徳川将軍の中では5代綱吉がとりわけ猿楽を好み、豊臣秀吉のように諸大名に自身の演技を見せたり、演技を披露することを求めたりしました。諸大名はこぞって綱吉ひいきの宝生大夫に入門します。将軍のひいきする流儀は名人・達人の世代交代により変遷しますが、加賀藩では幕末まで宝生流を主体に役者を抱え続けます。加賀藩の支藩大聖寺藩でもその影響を受け、それぞれの城下町(金沢・大聖寺)で藩主の嗜好が藩内に浸透して、しだいに下級武士や町民も謡をたしなみ、狂言を日常の娯楽とするようになります。
やがて武家の時代が終わり、明治維新後の役者たちは幕府や藩の支えを失います。全国的に猿楽が衰退するなか、東京でこれを能楽と改称して再興する中心にいたのが、前田斉泰(旧加賀藩主)・前田利鬯(旧大聖寺藩主)父子でした。一方、旧城下町でもいったん浸透した伝統芸能への親しみは根強く継承されて、明治34(1901)年には愛好者たちが金沢能楽会・錦城能楽会を結成し今日に至ります。
(公立小松大学国際文化交流学部 教授 西村 聡)
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更新日:2024年10月30日