9.大聖寺藩の能楽

更新日:2024年10月30日

  大聖寺藩(1639~1871)の能楽についてはその概要を記述したものがありません。しかし、『徳川実紀』『加賀藩史料』『加賀市史料』などに記載される、江戸・金沢・大聖寺の能楽関係記事を拾い集めてみると、その3都市の人々の往来・交流を通して、幕藩体制下の地方能楽の在り方が見えてきます。

大聖寺藩3代藩主 利直と能楽

  まず、大聖寺藩3代藩主 前田利直に注目しましょう。

  利直の祖父、加賀藩主の前田利常は家督を長男光高に譲り、自分は小松に隠居して、新たに次男利光を富山藩主、三男利治を大聖寺藩主としました。利常時代の江戸では、諸大名の藩邸へ大御所徳川秀忠、将軍徳川家光が訪問(御成(おなり))を繰り返し、諸大名は北七大夫(喜多流祖)はじめスター役者を招集して、能楽で秀忠・家光をもてなしました。前田家でもこれに備えて玄人役者を抱えますが、利常自身は能を演じていません。

  ところが利常の孫、加賀藩の前田綱紀(つなのり)、大聖寺藩の前田利直の時代になると、宝生びいきで有名な将軍徳川綱吉の指名により、各大名が江戸城で能の主役を演じさせられます。綱紀は貞享3(1686)年以来3度、綱吉側近((おく)(づめ))の利直は元禄6(1693)年以来6度、綱吉御前で演能・仕舞などをしています。利直が初めて藩主として大聖寺に入った宝永元(1704)年には、焼失していた居館を建て直し、その祝いに能楽を催しました。翌年にも能楽を催し、藩士や十村(とむら)(大庄屋)に見物を命じています。2回とも拝見人の名前が記録され、2回目は利直が能を3番演じています。奥詰ゆえに大聖寺入りの遅れた利直は、藩主の存在をこうして周囲に実感させたかったようです。

  加賀藩では綱紀の江戸城演能を機に、綱紀の後継者たちが幼少期から能芸をたしなむようになります。加賀藩は綱紀の子の(よし)(のり)の子孫たち、大聖寺藩は利直の後は吉徳の弟(とし)(あきら)の子孫たちが、藩主を継承してゆきます。なかでも吉徳の子重教(しげみち)やその子(なり)(なが)、孫の(なり)(やす)は、能楽に熱中しました。彼ら江戸後期の藩主たちは、だれに強要されるわけでもなく、演能する快感を覚えて、自ら進んで能楽を催します。

大聖寺藩8代藩主 利孝、9代藩主利之以降の能楽

  大聖寺藩では8代藩主利考(としやす)、9代藩主利之(としこれ)の時代に能楽の盛んな様子がうかがわれます。利考時代の大聖寺の居館では1月2日の(うたい)(ぞめ)囃子(はやし)(ぞめ)が定着し、江戸の藩邸では客人(諸大名)と藩主がかわるがわる演能を楽しみました。大聖寺藩邸の催しには大聖寺藩の役者だけでなく、加賀藩の役者も動員されています。利之の時代には加賀藩主斉広が江戸の大聖寺藩邸を訪れ、演能したことが2度知られます。利考・利之の時代は宝生大夫を将軍指南役とした徳川家斉が長く幕府に君臨しました。諸藩の能楽もその影響を受けています。

  やがて藩政期末期になると、12代(とし)(のり)、13代(とし)(みち)、14代利鬯(としか)と3代続いて、加賀藩主斉泰の子が大聖寺藩主に就任します。彼らは、幼少期に日々金沢城で斉泰から演能を仕込まれました。明治維新に伴い能楽は一時衰退しますが、最後の藩主利鬯は大正期まで長生きして、斉泰没後も東京で能楽復興を牽引してゆきます。

 

家系図

 

(公立小松大学国際文化交流学部  教授  西村 聡)

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