10.前田利鬯と能楽
最後の大聖寺藩主 前田利鬯
最後の大聖寺藩主前田利鬯(1841~1920)は生涯頻繁に演能したことで知られます。利鬯の兄である12代利義、13代利行が相次いで早世し、利鬯が14代藩主となるのは安政2(1855)年のことです。この3兄弟は幼少期から父斉泰(加賀藩主)に能芸を仕込まれ、金沢城で能を見たり演じたりしています。例えば安政4(1857)年3月28日、利鬯は参勤交代で江戸へ上る途中、金沢城に寄って斉泰の演能を見、自身も演能しています。こうした記録は大聖寺藩よりも加賀藩の史料で豊富に確認できます。
明治維新後、利鬯は大聖寺藩知事に任命されますが、明治4(1871)年の廃藩置県で解任されます。その頃の能役者たちは幕府や藩の保護を失い、継承の危機に直面していました。東京ではわずかに梅若実(観世流) と金剛唯一(金剛流)が舞台を維持して演能を続けていましたので、宝生流をたしなむ斉泰・利鬯父子も流儀を超えて梅若舞台へ出入りしました。
明治9(1876)年には右大臣岩倉具視邸に明治天皇の行幸があり、能楽が天覧に供されました。この時主役を演じたのは梅若実・宝生九郎の玄人2人と、斉泰・利鬯父子でした。また明治12(1879)年には前田利嗣(斉泰孫)の本郷邸に明治天皇の行幸があり、もちろん斉泰・利鬯父子が得意の演能を披露し、世間の評判となりました。父子は岩倉具視らとともに能楽社に結集し、明治14(1881)年に建設された芝能楽堂を拠点として能楽復興を推進します。
利鬯の帰県と演能活動
明治14(1881)年は秋から翌年にかけて、利鬯は官設鉄道北陸線の敷設運動のため一時石川県に帰ってきます。『加賀市史料(八)』所収の『御帰県日記』によると、金沢に新邸を構え、自宅や尾山神社・兼六園などで旧藩ゆかりの役者たちを呼び、仕舞・舞囃子などを楽しみました。大聖寺でも旧藩の松囃子に準じた式に臨んでいます。この『御帰県日記』は県下能楽史の過渡期を知る上で貴重な資料と言えます。
明治17(1884)年の斉泰没後の利鬯は、斉泰の建設した根岸別邸の舞台や芝能楽堂、宝生流松本金太郎の舞台など、東京で盛んに演能を続けます。明治34(1901)年、金沢では佐野吉之助が建設した舞台を使用して金沢能楽会が設立されます。その主な後援者は鉱山業で成功した横山家をはじめ、旧加賀藩の重臣家(加賀八家)でした。これに刺激されて、間もなく大聖寺でも利鬯主導のもとに錦城能楽会が結成されます。翌年は前田家が先祖とする菅原道真の千年祭を大聖寺の江沼神社で挙行し、さらに金沢でも尾山神社の昇格慶賀祭が執行されますが、利鬯は両方で能を演じて神前に奉納しています。
明治・大正期の利鬯の演能活動は、『梅若実日記』での言及や、当時の新聞・雑誌に記載する東京・地方の開催情報を、今後丹念に収集することで、その全容が把握されるはずです。
(公立小松大学国際文化交流学部 教授 西村 聡)
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更新日:2024年10月30日