11.錦城能楽会の歴史と活動
加賀市における錦城能楽会の歴史
加賀市は「能楽のまち」であるという人がいます。
それは、有名な能「実盛」の舞台が加賀市篠原町近辺であり、実盛塚や首洗い池は観光名所となっているからです。このようなことから、加賀市は能楽に関係深いまちだといえると思います。昭和30年から40年頃は大聖寺では空から謡が降ってくると言われたほど能楽が盛んだったそうです。
加賀市の能楽は、大聖寺藩第14代藩主 前田利鬯公の頃に活発になりました。幕末と明治のうち、実質約20年間大聖寺に住まわれており、明治に滞在した9年間で主に町人(商人)に能楽を伝授され育てられたそうです。
利鬯公が亡くなられてからも、弟子たちは金沢から職分(能楽師の資格の一つ)を招きながら練習に励み、発表会を開けるまでになっていきました。
昭和8年に仲間たちで錦城能楽会を立ち上げ、会則を作り、同年6月4日に江沼神社境内で第1回定期大会をしました。その後も練習を重ねていったのですが、度重なる戦争等で思うような活動ができず、戦後昭和30年頃にようやく個人が活動を再開しました。
昭和32年に再度錦城能楽会を立ち上げ、会則も見直し、5月26日に錦城小学校体育館で能楽大会を行いました。現在も続いている、能楽大会の第1回となります。その後春秋の能楽大会を毎年2回ずつ行っており、令和6年、秋季能楽大会は140回大会になりました。
昭和54年7月15日には、山代の加賀市文化会館の落成を祝って、1部は錦城能楽会、2部は金沢能楽会の能楽大会を開催しました。
こうした活動は、かつて、江沼郡大聖寺町より、昭和32年6月14日「錦城能楽」として無形文化財に指定されました。その後、加賀市教育委員会より、昭和46年3月6日「お松囃子」が加賀市無形文化財に指定され、錦城能楽会が保持しています。
【お松囃子とは】
江戸時代には、江戸城でも大聖寺の藩主居館でも正月に謡初が行われ、 これをお松囃子と呼ぶことがあった。大聖寺藩主の中でも、 特に14代藩主前田利鬯公は能楽を好み、お松囃子を大切にしてきた。
時期はさだかではないが、ある時期から松囃子の頭に「お」を付け「お松囃子」と呼ぶようになった。演目は、舞囃子≪高砂≫≪東北≫≪猩々≫と、狂言小舞≪弓矢≫≪餅酒≫の5つである。年頭に当たり、正面横に利鬯公の遺影をかかげ、利鬯公の霊を慰めるという意味と、公に感謝する意味で、最近は大聖寺地区会館で行っている。令和7年は正月4日に予定している。
現在の活動
現在の錦城能楽会の主な活動は、正月2日のお松囃子、5月末の春季能楽大会、7月末の菅生石部神社奉納演能、9月~12月に市内小学校のうち6校を巡回するワークショップ、10月末秋季能楽大会と市民対象ワークショップ、11月3日の市民文化祭への出演等です。いずれも催物のその前に6~7回の合同練習をしています。その他各種行事や祝い事等での演能出演依頼が臨時にあります。
当会は昭和40年頃は会員数250名を超える大所帯でしたが、近年は少子高齢化と古典芸能離れもあいまって会員数は激減し、このままでは存続が危ない現状です。長年伝統として催されてきたお松囃子や能楽大会の存続が心配されます。
市民の方々の理解と能楽参加を熱望します。
(錦城能楽会 会長 竹中浩三)
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更新日:2024年11月28日