13.加賀市の謡跡(1)
数多くある謡曲の中で、加賀市内を舞台とする謡曲には『実盛』と『敷地物狂』。それに舞台ではないが伝承地とされる『熊坂』もあるなど、市内は能楽との関わりが深い地域となっている。
『実盛』と遊行上人
時宗関係の『遊行縁起』によれば、応永21年(1414)3月5日からの潮津道場の別時念仏(※1)に、実盛の霊が現れて結縁(※2)したので、第14代遊行上人太空が卒塔婆を書いてこれを鎮魂したという。その潮津道場とは、『遊行二十四祖御修行記』に見える加賀国江沼郡の時宗布教の拠点 西光寺のことであろう。その所在地は現在加賀市潮津町の中央丘陵西麓に鎮座する式内社潮津神社の周辺が想起されるが、その具体的な遺構地は不詳と言わねばならない。
『満済准后日記』(※3)応永21年5月11日条(原漢文)に、「斎藤別当真盛霊、加州篠原ニ出現シ、遊行上人ニ逢テ十念ヲ受クト云々。去ル三月十一日ノ事カ、卒都婆銘一見セシメ了ヌ、実事ナラバ希代ノ事也。」と記されるとおり、実盛の亡霊が加賀国篠原の地に出現したというニュースは京都に伝わり、話題となった。その噂をヒントに世阿弥がこの機を逃さず、『平家物語』に基づいて謡曲『実盛』を制作したと推定される。
「実盛亡霊」出現事件は、篠原周辺に存在した実盛の伝承を利用して布教拡大の手段とした、時衆の宣伝工作である可能性が高い。つまり、民衆の信を繋ぎ止め、かつ支配層に接近するための有効な手段として、時宗教団によって仕組まれた「奇蹟」であったと推察される。もっとも、このような推察が成り立つためには、篠原周辺に実盛の伝説等が存在しなければならないが、現地には「実盛塚」(※4)、「首洗池」(※5)など、『平家物語』に描かれない多くの伝承地が確かに存在しており、当地が実盛ゆかりの地であることを物語っていると言えよう。

実盛塚(加賀市篠原町)

首洗池(加賀市柴山町)
※1 別時念仏
一定の期日をもうけて行う念仏三昧の修行。
※2 結縁
仏法に縁ができること。
※3 満済准后日記
室町時代、京都の醍醐寺の座主であった満済が書いた日記。「准后」は朝廷の位である太皇太后・皇太后・皇后に準じる称号のことで、皇族以外の公家や高僧等にも与えられた。
※4 実盛塚
木曽義仲との「篠原の戦い」で亡くなった、実盛の亡骸を葬ったと伝わる。
※5 首洗池
実盛は「篠原の戦い」の前に、自らの白髪と髭を黒く染めて臨んだが、討たれたときに名乗らなかった。その首を洗うと白髪の実盛の姿があらわになったと伝わる池。
(能・敷地物狂実行委員会 会長 伊林永幸)
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更新日:2025年02月14日