13.加賀市の謡跡(1)

更新日:2025年02月14日

  数多くある謡曲の中で、加賀市内を舞台とする謡曲には『(さね)(もり)』と『敷地(しきじ)物狂(ものぐるい)』。それに舞台ではないが伝承地とされる『熊坂(くまさか)』もあるなど、市内は能楽との関わりが深い地域となっている。

『実盛』と遊行上人

  時宗(じしゅう)関係の『遊行(ゆぎょう)縁起(えんぎ)』によれば、応永21年(1414)3月5日からの潮津(うしおつ)道場の(べつ)()念仏(ねんぶつ)(※1)に、実盛の霊が現れて結縁(けちえん)(※2)したので、第14代遊行(ゆぎょう)上人(しょうにん)(たい)(くう)卒塔婆(そとば)を書いてこれを鎮魂したという。その潮津道場とは、『遊行(ゆぎょう)二十四(にじゅうよん)()御修行記(ごしゅぎょうき)に見える加賀国江沼郡の時宗布教の拠点 西光寺(さいこうじ)のことであろう。その所在地は現在加賀市潮津町の中央丘陵(きゅうりょう)西麓(せいろく)に鎮座する式内社潮津神社の周辺が想起されるが、その具体的な遺構地は不詳と言わねばならない。

 

潮津町等 位置図

 

 『満済准(まんさいじゅ)(ごう)日記(にっき)(※3)応永21年5月11日条(原漢文)に、斎藤(さいとう)別当(べっとう)(さね)(もり)霊、加州篠原ニ出現シ、遊行上人ニ逢テ十念ヲ受クト云々。去ル三月十一日ノ事カ、卒都婆銘一見セシメ(おわん)ヌ、実事ナラバ希代ノ事也。」と記されるとおり、実盛の亡霊が加賀国篠原の地に出現したというニュースは京都に伝わり、話題となった。その噂をヒントに世阿弥がこの機を逃さず、『平家物語』に基づいて謡曲『実盛』を制作したと推定される。
「実盛亡霊」出現事件は、篠原周辺に存在した実盛の伝承を利用して布教拡大の手段とした、時衆の宣伝工作である可能性が高い。つまり、民衆の信を繋ぎ止め、かつ支配層に接近するための有効な手段として、時宗教団によって仕組まれた「奇蹟」であったと推察される。もっとも、このような推察が成り立つためには、篠原周辺に実盛の伝説等が存在しなければならないが、現地には「実盛塚」(※4)、「首洗池」(※5)など、『平家物語』に描かれない多くの伝承地が確かに存在しており、当地が実盛ゆかりの地であることを物語っていると言えよう。

 

実盛塚

実盛塚(加賀市篠原町)

首洗池

首洗池(加賀市柴山町)

 

※1 別時念仏
     一定の期日をもうけて行う念仏三昧の修行。

※2 結縁
      仏法に縁ができること。

※3 満済准后日記
     室町時代、京都の醍醐寺の座主であった満済が書いた日記。「准后」は朝廷の位である太皇太后・皇太后・皇后に準じる称号のことで、皇族以外の公家や高僧等にも与えられた。

※4 実盛塚
    木曽義仲との「篠原の戦い」で亡くなった、実盛の亡骸を葬ったと伝わる。

※5 首洗池
     実盛は「篠原の戦い」の前に、自らの白髪と髭を黒く染めて臨んだが、討たれたときに名乗らなかった。その首を洗うと白髪の実盛の姿があらわになったと伝わる池。

           

(能・敷地物狂実行委員会 会長 伊林永幸)

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