15 「能のまち」であるために

更新日:2025年03月17日

   一昨年、加賀市内の⼩学5、6年⽣約千⼈が広いホールに集まって、能楽を代表する曲「⽻⾐」の⼀節を謡うという前代未聞の試みを実現いたしました。ご指導くださいましたのは宝⽣流シテ⽅の佐野(さの)弘宜(こうき)先⽣。⽣徒さんたちはゼロからの出発。佐野先⽣も千⼈もの⽣徒さん達の声をどのように「謡い」としての発声に導くか、普段とは全く勝⼿の違うお稽古への第⼀歩であったと存じますが、厳しい残暑の中、先⽣も⽣徒さん達も汗を滴らせながら懸命のお稽古を続けてくださいました。 そして錦城能楽会の⽅々のご助⼒も頂きながら10⽉10⽇本番を迎え、⽴派に謡い終えたことは市⺠の皆様も新聞などでご覧になったかと存じます。

  能楽の歴史はおよそ700年と⾔われておりますが、戦国時代後期には武⼠の間で盛んになり、殊に豊⾂秀吉は、徳川家康や前⽥利家なども巻き込んでしきりに能の会を催しました。⾃らシテを勤めることもあり、朝鮮半島を意識して建設した肥前名護屋城内 にも能舞台を造るほどであったと、天野⽂雄著『能に憑かれた権⼒者』で知りました。 その影響は江⼾時代にも及びまして武家の式楽として能が制定されましたし、五代将軍徳川綱吉が宝⽣流を好み、江⼾城内の能 舞台での上演を⺟(けい)昌院(しょういん)と共に楽しんだことなど、徳川将軍家歴代の経歴を記した史書『徳川実記』に詳しく記されております。 しかしながら幕府⽡解に伴い、能楽関係者は職を失って各地に散ることとなりました。 加賀に⾝を寄せた能楽師も多かったようです。⼤聖寺藩、最後の藩主前⽥(とし)⾿()公が、これら能楽に関係する⼈々の後援者となって加賀の地に能楽を定着させたことは、皆様(つと)にご承知の通りでございます。 その得難い⽇本⽂化への思いを、21世紀の今⽇に繋げようという⼼意気で加賀市の「能のまち」構想は始まりました。

  昭和20年8⽉15⽇、太平洋戦争の終結によって⽇本は⼤きな転換を強いられ、その影響は北陸、加賀の地にも当然及びまして、10年20年と経つうちに重要な地元の産業にも変化が出てまいりました。同時にそれは地元の⼈々の精神⽣活にまで⾷い込んで、⽂化を⽀えてきた地盤そのものも次第に変わっていくなか、元号も2度変わりました。 戦後80年、改めて地元の原点に注⽬して「能」という⽂化の屋根の下に集ってみようと、その最初の試みを実現してくれたのが⼩学⽣による「千⼈謡」です。2回⽬を期待しております。

(作家 ⽵⽥ 真砂⼦)

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